岐山会報  から                             home          

徳山高校同窓会の会報「岐山会報」は、毎年同窓会総会で配布されています。
この中の「各期だより」から25期関連記事やおすすめの記事を掲載します。
(表紙の画像をクリックすると大きな画像になります)

令和3年度 特別編集版 同窓生からの寄稿 徳高生に読んで必ず読んでほしい20の言霊
周南は文化と歴史に溢れている!  ■ 徳高25期 西村修一
フェイクニュースにはご用心!     ■ 徳高25期 松田義雄
令和元年度 第33号
(2019年)
巻頭カラー 変わる徳山 vol.2  岐山通り〜動物園
校長挨拶  校長  椎原伸彦  (現在の徳高の状況)
各期だより  徳山は東京地名であふれてる!?  ■ 徳高25期  西村修一
各期だより  東京マラソン顛末記         ■ 徳高25期  マッハン
あの人に聞く  脚本家 高32期 福田靖さん  NHK朝の連ドラ「まんぷく」の裏側 
平成30年度 第32号 巻頭カラー 変わる駅前 変わる岐山通り
校長挨拶 校長 須藤恒史 (現在の徳高の状況)
25期掲示板 南紀白浜旅行記 ■徳高25期 佐井利信
25期掲示板 山陽道を歩こう  ■徳高25期 西村修一
タクシーでわが街の酒蔵ツアー
(おまけ)徳山高校放送部制作 「たぬきとまめさん」 證誠寺のたぬきばやしの謎

平成29年度 第31号 巻頭カラー  徳高文化祭  部活動行進風景(運動会)

校長挨拶 校長 須藤恒史 (現在の徳高の状況)

25期掲示板 〜周南発〜 ■徳高25期 船本洋子
平成28年度 第30号 運動会 アーチの歴史〜アーチの中に世相が見える〜

還暦旅行 Part-2 in Kagoshima 旅行記(徳高25期 松田義雄 坂本邦彦)
平成27年度 第29号 徳高栄光の記録庫 (応接室の優勝カップ・盾・賞状)
校長挨拶 校長 倉田伸治 (現在の徳高の状況)
徳高25期生の居住地分布 ■徳高25期 坂本邦彦
101歳で25個の世界記録(長岡三重子さん 徳女19期)
徳山女学校に学徒動員で戦争を経験し、終戦後の復興を常に徳山の中心部で経験し、今も現役で有楽ホテルを支え続けるおかみさん(河村トミエさん 徳女33期) (25期 3組丹羽(河村)佳子さんのお母さん)
部活タイムカプセル 剣道部
 (
25期 5組 岩本君 茂木君 登場
平成26年度 第28号 写真で見る徳高の現在(いま)

25期ホームページをよろしく   ■徳高25期 友弘 充洋
平成25年度 第27号 還暦を前に〜高校時代の日記を公開!   ■徳高25期 清沢啓子 (旧姓大石)

平成25年度 SSH全校講演会
「皆さんへのメッセージ〜先輩として、医師として〜
東京女子医科大学教授 松田義雄氏(高25期
平成24年度 第26号 高25期だより  ■徳高25期 通山恭一
平成23年度 第25号 平成23年度夏:修学旅行アゲイン〜報告記 ■徳高25期 松田義雄
平成21年度 第23号 二五期「東京七夕同窓会」あれこれ
■徳高25期 戸倉三郎
平成20年度 第22号 「畏友 故中村朗君のこと」 ■徳高25期 坂本邦彦
平成19年度 第21号 「永久の生徒会長へ」 ■徳高25期 松田義雄
平成18年度 第20号 「カワウソの夜」 ■徳高25期 原田洋子
平成17年度 第19号 「アキラです。まだ生きているとです。」 ■徳高25期 中 村 朗


令和3年度 特別編集版
周南は文化と歴史に溢れている!  ■ 徳高25期 西村修一
(画像をクリックすると大きい画像が見られます)
 「徳山は日本一の非文化都市である」美術の授業で藤永俊雄先生が語られた言葉を今でも印象深く覚えている。「ただ一つ、日本に誇っていいものが徳山にはある」と切り返された。「マツノ書店」だった。二〇〇七年に、貴重な文献の復刻出版など長年の社会的、文化的貢献に対して(菊池寛賞)が贈られた。他の受賞者が市川団十郎さん、桂三枝さん、小沢昭一さんだから格調が高い。マツノ書店さんとは少なからず係わりがある。店頭のウインドウに、『徳山市鳥撤図』(徳山市役所発行)がディスプレイされている。原本は、折込み式のとても珍しい絵葉書で、東京の大川寿太郎さん (高五期)が所有しておられた。両者の仲立ちをしたということで、私の名前も載せてもらった。一・五倍に見
やすく拡大され、裏の徳山市の概観や観光名所案内まで復刻されている。ケースの裏書きに、店主の松村久さん(高三期、二〇一八年永眠)復刻に対する思いが語られている。吉田初三郎氏は 大正の広重〃と言われ、サービス精神旺盛で、富士山や釜山まで描いている。日本全国各市がこぞって彼に鳥観図を依頼し、下松市のものもある。



 私は有数の文化都市京都に人生の半分近く住み、郷里に戻ってきました。京都時代は、宇治谷孟氏(著作に『日本書紀』 『続日本紀』全現代語訳)に師事し、『記紀』を研究しておりました。「郷里には文化も歴史もない」と思っていましたが、間違いでした。

 今は古墳ブームで、女性ファンが急増中です。古墳と言えば、前方後円墳。現在は東ソーの一部となっている竹島に、山口県で最古の前方後円墳が存在します。竹島御家老屋敷古墳。卑弥呼が魂より拝領したという三角縁神獣鏡≠ェ埋葬されていました(周南市にはレプリカがあります)。しかも、卑弥呼が「親貌倭王」の印綬と百枚の鏡を贈られた「正始元年(二四〇年)」の年号入りだから、たまりまへん。チョーお宝なのです。初めて墳丘に登った時の感動は今も忘れません。
*拙稿『徳山地方郷土史研究』二七〜三〇号、三三〜三四号「竹島古墳と邪馬台国」シリーズ参照 図書館にあります。

 みなさん、日本三大奇襲″というのをご存じですか? もちろん、一つは桶狭間の戦い。陶晴賢の居館は周南市にあります。晴賢率いる二万の兵は広島の厳島にて陣取ります。毛利軍が夜陰に紛れてひそかに上陸し、背後に回っていました。厳島の戦いもその一つに挙げられます。
 奇襲で、晴賢を破った元就は、その勢いで、大内領の周防に侵軍してきます。大内軍一万が須々万の沼城に集結して待ち受けます。元就も隆元も元春も隆景も、かかってこい! 陶の館跡も若山城址も沼城址も周南市の貴重な史跡です。

 山陽道はそれ自体で集合的な文化財と言ってよいとでしょう。有名な寺社や屋号のある商屋が集まっています。遠石八幡宮の大鳥居の前の道や、久米の山麻酒造の前の道が山陽道です。徳山藩を海沿いに貫く主要幹線で、福川には本陣門が残り、呼坂本陣は貴重な建物自体が残っています。本陣とは、参勤交代の休憩や宿泊施設のことです。



 NHKの「街道てくてく旅」という生中継番組で、アーティスティックスイミングのオリンピックメダリストの原田早穂さんが旅人として、福川本陣を訪れました。シティ・ケーブル周南の山崎道子アナと私が対応して、朝早くからのリハーサルでしたが、誕生間もない 「周南市」を全国にアピールすることができました。大型中継車の駐車場の確保には、同級生の「いよや」の社長の福田正夫くん(高二五期)が全面協力してくれました。

 山陽道は総合文化財のようなもので、贅沢な財産です。故郷のみなさんにもぜひそれを知ってほしいと、「山陽道を歩こう」というイベントを立ち上げました。十年以上続いています。本陣から本陣へ、スタッフが仮装して、ガイドします。昼休憩では、パフォーマンスをします。岩本紀之さん(高一四期)や、内山孔二さん(高二七期)が賛同参画してくれました。
*拙稿『徳山地方郷土史研究』「篤姫と福川本陣」三一号、「山陽道探求」三八〜四〇号 ネット「徳山藩ドットコム」で読めます。

 わたしは少年野球の大会で古い御門をくぐつて毛利球場へ入った記憶があります。そこは徳山毛利藩の殿様のお屋敷だったのです。名門支藩です。長州藩の最後の当主元徳は毛利徳山藩の出身です。スゴいじゃないですか。また徳山藩にはスゴいトンデモ歴史があります。なんと三代でお取り潰しとなりました。藩主元次は新庄藩(山形県)に飛ばされました。万役山事件がきっかけです。久米の山陽道の近くにあります。
*詳しくは、「ふるさとかわら版」周南市ふるさと振興財団の 「山陽道エピソード」を検索してください。ネットで入れます。

 周南市の知られていない文学者を紹介しましょう。国会議員でもあった福川出身の福田悌夫さん(中一三)です。東京帝大に進み、文芸雑誌『新思潮』に参画しました(第五次)。近衛文麿や菊池寛は文学仲間です。代表作に『模造漫歩』があります。平和主義者の悌夫は随筆で 「これより先、議会の秘密会で近衛首相から詳しい説明を聞いた私は、到底敗戦の免れがたきを悟り、一日も早い終戦が日本を救う最短の距離だと信じたのだ」と書いています。入れ替わりに当選したのが、皮肉にも同級生だった岸信介でした。『俳句日誌』に 「拘置所の塀に沿いゆく朝暑し」と、戦後、岸を巣鴨プリズンに見舞っています。「将棋指す浴衣の腕は太り居り」とは将棋好きの菊池寛のことです。徳山空襲を「焼夷弾降るや 月光を熟くする」と詠んでいます。俳句と言えば、プレハトという番組で知りました。徳山高校文芸部、第一七回俳句甲子園日本一おめでとうございます。

 悌夫の甥で、現当主福田雅正さん(高五期、二〇二〇年に永眠)と本を出しました。『福川柏屋〜祖先記』『福川柏屋〜新祖先記』
 *図書館にあります。拙稿『徳山地方郷土史研究』三五〜三七号「福川柏屋と福川の歴史」「福川柏屋探求」「福川史のはじまり」参照。ネット「徳山藩ドットコム」で見れます。

 徳山は「リトル東京」と言われるくらい、東京地名が溢れています。銀座、有楽町、代々木公園、新宿、原宿、青山、千代田町、晴海…。バス停、歩道橋、交通標識、電柱、ビル…いろいろなところで見られます。二〇一九年、フジテレビ「世界の何だコレけ‥ミステリー」で紹介し、郷土史会でも都市伝説を論破しました。秋には「徳山の東京地名めぐり」のイベントを立ち上げて、徳山駅から出発して、22時間ぐらいで一周できるモデルコースを提案して、ガイドしました。「徳山の東京地名めぐりマップ」が完成しましたので、マップや資料を所望の方は、観光交流課もしくは私に問い合わせてください。
*拙稿『徳山地方郷土史研究』四一号「徳山の東京類似地名」四二号「徳山の東京地名めぐり」 日刊新周南二〇一九.一〇.一〇(ネット)、読売新聞タ刊一二.一四参照

 維新の四傑僧のうち、三傑僧が周南市出身です。将来は総理大臣の呼び声が高かった児玉源太郎の銅像が、徳山小学校近くの児玉公園に立っています。

 徳山湾には日本連合艦隊が停泊したり、最期の戦艦大和が給油のために立ち寄ったことがあります。徳山は海軍燃料廠の空爆と、市街の大空襲を経験しました。私は子供の頃、漁船に乗ってタンカー日章丸を見に行ったことがあります。映画「海賊と呼ばれた男」 で有名です。

 歴史と文化にあふれている!スゴいじゃないですか、しゅうなん。知らないだけだったのです。知ろうとしなかっただけでした。

 青銅製の「御幸通」 のオブジェに何だろうとさわってみます。アサヒワシ醤油の大きな鏝絵を見上げて、「芸術だあ、徳山の葛飾北斎だあ」と叫んでしまいます。自分のふるさとはありきたりだ、昔から知っていると思い込み、身近なものに感動すらしていなかった自分が恥ずかしい。

 こんなにも文化的で、歴史的にもエキサイティングな街だったんだと、もう市民の皆さんに伝えずにはおられません。ずっとその思いで、周南市教育委員会の嘱託として、徳山地方郷土史研究会(副会長歴)として、山陽道を歩こう会の代表としてファイトしてきました。

 当会の現在の会長は、回天顕彰会の会長でもある「はつもみぢ」酒造の原田茂さん(徳九期)です。徳山藩のサイトを運営している栗ア健さん(徳二〇期)らと共に郷土史の発掘や啓蒙活動に励んでいます。
* 『周南・下松・光今昔写真帖』(郷土出版)、『周南・下松・光の昭和』(樹林舎)、『民俗文化 第二四号』(近畿大学民俗学研究所)、「富田瓦について」、私は同志社大学のOBです。すべて図書館にあります。



 〔追記〕今世間は、コロナ禍でパンドラの箱をひっくり返したみたいに大騒ぎです。私は 「周南輝き大学」 の講師をしていますが、万全の準備をして臨んだ前日に中止
の連絡を受けました。とても憂えています。歴史学の基本はフィールドワークです。実際の歴史の舞台を歩いて感動してみること、現地の人と話をしてみて風土を感じたり、ささやかな発見をすること。コロナ禍が早く落ち着いて、またあちこち行きたい。ぜひ自分の生きがいを見つけてください。どこかで聞いたようなエールになりますが、栄光の「岐山会」は永遠に不滅たれ!
フェイクニュースにはご用心!     ■ 徳高25期 松田義雄
(画像をクリックすると大きい画像が見られます)
 令和2年早春、わが国を未曾有のクライシスが襲った。のちに全世界を巻き込む100年に一度レベルの新型コロナウィルスによるハンデミックである。

◆「フェイク・ニュース」と「オネスト・エラー」

 緊急事態宣言期間中には、少しでも人々の気持ちを和らげようと色々な動画が回ってきた。動物とのふれあいや動物の変顔に始まり、イタリアでの病院屋上からの日本人演奏家によるバイオリン演奏、英国での街頭からの歌声は魂を揺さぶるものであった。そんな中、あるニュースキャスターの面自動画が届けられた。

 概要は次のとおりである。“コンビニで強盗未遂あり、コンビニ店員に刃渡り3pの鼻毛用のハサミで脅したが、その場で現行犯逮捕された。犯人は「長さが足りなか
った」と供述した1とのこと。こうして活字にすれば面白味は半減するが、キャスターが笑いを必死に堪えている様は何度見ても、涙が出るほど面白い。この動画を受け取った多くの方々も同様の感想であった。

  

 数日経って、これは芸人によるフェイク・ニュースと分かった。見事、騙された訳である。しかし、ありうる話ではないか?実際、その一週間後のニュースでは、「賽銭箱から90円が盗まれた話」を伝えていた。この二つの話にどれほどの違いがあるだろう。

 私が推察するストーリーは、「地方のちょっとした笑えるニュースを、アナウンスの得意な芸人にドッキリのつもりで打ち合わせなしに渡したところ、ツボにはまって笑いだしてしまった」といったところか。

 数年前に、わが国の医学研究の信頼性を大きく揺るがすSTAP細胞事件が起こった。その話題に隠れてしまったかもしれないが、降圧剤の有効性を検証する論文に研究データ改ざんの疑いが持ち上がり、臨床研究でも大きな問題となった。最終的には「現存するデー夕では適切に訂正することができないhonest error(オネスト・エラー、悪意のない間違い、誠実に行った上の誤り)がある」と弁明したため、主要論文は取り下げになった。オネスト・エラーという言葉をこの時初めて知ったが、これはいただけない。

◆「だしいりたまご」

 新型コロナウィルス感染症をめぐって医学的根拠の乏しい情報が出回っているのを危惧して、外科医の山本健人先生は、「わかりやすい医療」を発信しておられる。ある朝のニュースで、次のような語呂合わせが紹介されていた。

「だ」誰が言っている?
「し」出典はある?
「い」いつ発信された?
「り」リプライ欄(返信欄)にどんな意見?
「た」たたき(攻撃)が目的ではない?
「ま」まずは一旦保留しよう
「ご」公的情報は確認した?

「だしいりたまご」のネーミングも酒落ていて、「ネット情報を見極める7つのヒント」として、優れものである。

 「正確性」という点では、専門家からの情報に勝るものはない。しかしながら、そのままの表現では、なかなか理解しづらいと感じる場合もある。近年、リスク・コミュニケーションの重要性が叫ばれている。つまり、同じリスクを話しても、数値の捉え方によって、受け手の解釈が変わってしまうことがあるため、その伝え方に慎重を期す必要があるからである。

 「専門外の人が理解できるようにわかりやすく伝える技術」、「もう一段階易しくするための同業者による翻訳作業」、そして、 「リスク・コミュニケーション術」が今後ますます必要になるのでは?と感じている。
             (2020年5月31日)

◆「このニュースは本当?」

 日本産婦人科学会・日本産婦人科医会の情報提供に関する反応は速かった。9年前の東日本大震災の教訓が確実に活きている。産科診療従事者だけでなく、妊婦への最新情報は、令和2年2月3日を第1報として5月26日には第8報まで更新され続けている。

 そんな中、「分娩場所がない」というニュースが流れてきた。
 (1)都内で最初にクラスターが発生した病院で分娩予定だった(感染していない)妊婦さんが健診はおろか分娩ができなくて困っている。(2) これに関連して、妊婦健診も十分にしてもらえず不安だ、ということも併せて報道された。

 このニュースを聞いて、「妊婦さんは大変だね。早く何とか手を打って」と多くの視聴者が感じたことだろう。さて、産科の最新情報と都内の状況を知っている立場として、このニュースは正しく伝えたものだったか? 残念ながら、そうではなかった。

(1) についでは、引受先がなかなか見つからなかったのは、本件とは別の問題もあったから。「お産難民」 をゼロにすべく、学会は必死になって取り組んでいて、少なくともあの病院で分娩予定となっている妊婦さんは全て他院での受け入れが完了していた。
(2) については、学会のホームページを見ればわかるが、「特にリスクがなく、異常がなければ、健診の回数を減らします」と書いてある。外出して感染するリスクの方が大きいと考えられるからである。

 なぜこれらの事実は伝えられなかったのだろうか?少なくとも、最後に「関係者の努力で、すべての妊婦の引受先は決まったということです」「妊婦健診については、かかりつけの先生に相談してみてください。学会のホームページはここに示してあります」と補足すれば完璧だったのに…。逆に、これらの事実を伝えれば、ニュースとしてのインパクトが少し落ちると考えたのか?と勘ぐつても見たくなる。

 この話題は、内情を知っていたからこそ、「不正確な情報」と指摘できたわけである。医学でも自分の専門以外は「医学界の常識」についてはコメントできるが、それ以外は自信もって正確にはコメントできない。ましてや、医学以外の真相については知る術はない。これは、医師に限らず全ての人(いわゆる知識人と称される方々を含む)にいえることではないだろうか?

 いったんニュースになると、真実であれ、嘘であれ、取り返しがつかない

令和元年度(2019年度)  第33号
巻頭カラー 変わる徳山 vol.2  岐山通り〜動物園
(画像をクリックすると大きい画像が見られます)
校長挨拶  校長  椎原伸彦  (現在の徳高の状況)

〇 はじめに
 岐山会の皆様方には、ますます御清祥のこととお喜び申し上げます。平素から母校の教育の充実発展に格別の御厚情と御支援を賜り、厚くお礼申し上げます。
 さて、平成三十一年度・令和元年度(二〇一九年度) は、本校全日制普通科二百四十名、理数科四十名、定時制普通科一名、徳山北分校全日制普通科七名、鹿野分校全日制普通科七名の新入生を迎えました。全校生徒九百十一名となり、その内訳は、本校全日制八百五十七名、本校定時制二十名、徳山北分校十七名、鹿野分校十七名です。
 本校は、明治十三年(一八八〇年)に創立し、来年、百四十周年を迎えます。この間、幾多の輝かしい足跡を残され、文武両道の伝統を築き上げてこられました。そして、四万名を超える卒業生の皆さんが、国内外の各界・各分野において活躍をされておられます。生徒には、この確かな歴史と伝統をもとに、この学び舎の一員となったことを誇りとし、自信として欲しいものです。
 そして、将来、社会の中でその担い手の一人として自立し、さらに他者に共感し、協働していくようになることが求められています。徳山高校で過ごす三年間あるいは四年間の高校生活の中で、自分の可能性やよさを見出し、それらを伸ばして、その礎となる新たな自信を身に付けていってもらいたいと願っています。そのためにも、生徒には何事にも挑戦し、主体性を発揮して具体的に動いて欲しい、勉学と部活動や学校行事等の諸活動に積極的に取り組み、お互いに学び合い、切磋琢磨し、助け合い、高め合いながら、随所に徳高生としての意気を見せて欲しいと思っています。
 併せて、本校全日制では、校訓「真 健 和」の下、「伝統を継承し、相互の信頼感を深め、不断の努力によって学力の充実した心身ともに逗しい生徒の育成をめざす」 ことを教育目標とし、教職員が一丸となり、主体的な学びを伸長する学習活動・進路指導の推進、総合的な人間力の育成に向けた特別活動・体験学習の充実、自主自立の精神と社会貢献への意欲・能力の育成に具体的に取り組み、知・徳・体の調和のとれた教育活動を推進してまいります。そして、保護者や地域の方々、同窓生の皆様方としっかりと連携し、徳山高校を選び入学してきた生徒が、高校生活を通して、たえず真実を追求して、強健な心身と和の精神を育み、これからの社会を支える達しい人として成長できますよう力を尽くしてまいります。

〇 SSHの取組の推進
 平成二十二年度(二〇一〇年度) に、文部科学省から「スーパーサイエンス
ハイスクール(SSH)」の指定を受け.未来を担うグローバルな科学技術に秀でた人材の育成に取り組み、本年度で十年となります。大学や地元企業・卒業生等と連携した体験学習やマレーシア海外研修などの取組を年々充実させています。平成二十七年度(二〇一五年度)からは、『イノベーションの担い手となるグローバルサイエンスリーダーの育成』を研究開発誅理上して、理数科とともに普通科の生徒も対象とした取組を展開しています。
 本年度からは、理数科一年次の学校設定科目「メディアリテラシー」 において、AI (人工知能)を自らプログラミングできるよう指導するとともに、普通科・理数科一年次生全員による「総合的な探究の時間」 において、生徒自ら課題を発見し解決する課題解決型学習(PBL)を行っています。すでに科学部では、昨年度からAI研究に取り組んでおり、その一環として挨拶ロボットや自動採点システム、自動運転カーを作り、本年三月、京都大学におけるポスターセッションにおいて、最優秀賞を受賞しています。今後、大学や企業等とも連携して取組を進めていきたいと考えております。
 また、平成二十九年度(二〇一七年度) からは『山口県周南地域発信!地域資源の活用による環境科学リテラシーの醸成・向上』をテーマに、「周両市における水素利活用の取組と実際」や「県外屋外研修〜屋久島〜」等、人材育成と地域貢献をめざした研究にも取り組むなど、山口県理数教育を先導する特色ある取組を行っております。

○ 進路指導・キャリア教育及び大学 進学状況
 昨年度は三百二十六名が卒業し、そのうち、国公立大学に百七十名が合格し、県内で最大の合格者数を出しました。
 主な国公立大学の現役合格者数は、次のとおりです。
 東北大学一名、筑波大学二名、お茶の水大学一名、東京大学二名、東京外国語大学一名、一橋大学一名、名古屋大学二名、京都大学五名、大阪大学六名、神戸大学二名、岡山大学十六名、広島大学十一名、山口大学三十四名、九州大学十八名、九州工業大学三名、熊本大学四名、山口東京理科大学四名、山口県立大学八名 他
 なお、医学部医学科に二名、薬学部に七名が合格しています。
 また、私立大学は、次のとおりです。 青山学院大学一名、慶応大学三名、中央大学八名、津田塾大学一名、東京理科大学九名、法政大学五名、明治大学七名、早稲田大学十二名、同志社大学十六名、立命館大学四十七名、関西大学十六名、近畿大学二十八名、関西学院大学十名、福岡大学二十八名 他
 本校全日制では、本年度も、「きめ細かな進路指導体制の確立」「目標達成のための学力養成と進路意識の洒養」を重点目標に掲げ、三か年を見通した各年次の重点指導を示し、「自ら学ぶ生徒の育成」 に取り組み、これまでの成果を生かしながら、生徒一人一人の主体的な進路実現に向けて、進路指導の一層の充実を図ってまいります。
 また、高校卒業後の大学等の進学等とその先を見据え、生徒一人一人が自己の生き方在り方について考えるキャリア教育を積極的に推進しています。具体的には、卒業生の講話や大学等の出前講義を行う「魁講座」や各種講演会の開催、大学等のオープンキャンパスや体験学習への参加などにより、上級学校や職業等について学び、将来、社会人・職業人として自立していくために必要な意欲や態度の育成に取り組んでいます。

○ 特別活動の充実と部活動の実結
 本校全日制では、「文武両道」の校風の下、学校行事や生徒会活動、部活動等の諸活動が大変活発に行われています。特に、本年度、八月三十一日(土)に開催する「運動会」と九月七日(土)・八日(日) に開催する「徳高祭」は、地域の多くの方々も楽しみにされていますが、生徒会と有志で構成する実行委員会が中心となり、生徒が主体性を発揮して、企画・運営しています。母校にお越しいただき、後輩たちの元気
な姿を御覧いただきたいと思っております。
 また、運動部十四部、文化部十六部の諸活動においても、それぞれに熱心に活動し、多くの活躍が見られます。本年度の主な実績は次のとおりです。
《中国大会出場》
・卓球部(女子団体)
・ソフトボール部(男子・女子)
・剣道部(女子個人)
・柔道部(男子個人)
・ソフトテニス部(女子個人)
・陸上競技部
  (男子100m、200m、400m、4×100mリレー、4×400mリレー)
  (女子100mH、400mH)
・認定種目‥空手(女子個人組手)
・認定種目‥水泳
  (男子50m自由形、400m自由形、1500m自由形、10Omバタフライ、200mバタフライ、20   0m個人メドレー、400m個人メドレー、4×100mフリーリレー、4×200mフリーリレー、   4×100mメドレーリレー)
 (女子400m自由形、800m自由形)
《全国高等学校総合体育大会出場》
・ソフトボール部(男子)
・弓道部(女子個人)
《全国高等学校総合文化祭出場・出品》
・文芸部(文芸部誌・短歌)
・放送部(アナウンス・ビデオメッセージ)
・棋道部
 将棋(男子・女子団体、男子個人)
 囲碁(男女混合団体、女子個人)
・美術部(絵画)
《俳句甲子園「全国高等学校俳句選手権大会」出場》
・文芸部
《NHK杯全国高校放送コンテスト出場》
・放送部(朗読、創作ラジオドラマ)
《文部科学大臣杯全国高等学校囲碁選手権大会出場》
・棋道部・囲碁(男子・女子個人)

○ おわりに
 今日、グローバル化や高度情報化、AI等の技術革新、少子高齢化・人口減少が急速に進展する中、大きく社会も変化し、さらに人生百年時代や超スマート社会「ソサエティ5.0」の到来が予測されています。「ソサエティ5.0(Society5.0」は、AI、ビッグデータ、IOT等の先端技術が高度化して、あらゆる産業や社会生活に取り入れられ、社会の在り方そのものが劇的に変わることを示唆するものです。その社会では、新たな価値を創造できるよう、幅広い知識と技能、思考力・判断力・表現力とともに、他者を思いやり、多様性を尊重し、持続可能な社会を志向する倫理観・価値観等を持つことが求められています。
 こうした中、「大学入試センター試験」に代わって、「大学入学共通テスト」が令和二年度実施の令和三年度大学入学者選抜から行われることになり、国語・数学の記述式問題の導入や英語の民間資格・検定試験の活用、多面的・総合的な評価の実施が定められています。併せて、求められる資質・能力とは何かを社会と共有し、連携する「社会に開かれた教育課程」と確かな学力・豊かな心・健やかな体の育成を基本的な考え方とする「新学習指導要領」が公示され、本年度から「総合的な探究の時間」の実施等、移行措置が取られるなど、高大接続改革が進められています。
 今後とも、校訓「真 健 和」の下、多くの輝かしい足跡を残されてきた本校の佳き歴史と伝統「文武両道」の校風を今に生かし、人生百年時代や超スマート社会「ソサエティ5.0」 の到来に向け、自立し、次代を牽引する知性と品性を兼ね備えた遅しい人材の育成に努めてまいります。会員の皆様には、一層の御支援、御鞭達を賜りますようお願い申し上げます。
 終わりに、岐山会の益々の御発展と会員の皆様方の御健勝・御多幸を心から祈念申し上げます。
各期だより  徳山は東京地名であふれてる!?  ■ 徳高25期  西村修一
 徳山の東京地名は今ではTVでも紹介されるほど、全国的に関心を持たれています。羽鳥モーニングショー(二〇一六・十一二一十六) では十分説明できませんでしたので、地元の郷土史会で積み重ねられてきた研究や私の新調査も加えて、その成果をみなさんに披露しましょう。銀座、新宿、千代田、代々木公園、有楽町、御幸通、原宿…ありますねえ。まだまだ晴海埠頭、田園調布、五反田、青山なんて指摘も東京スタッフから受けました。意外に思うかもしれませんが、この中で東京起源と言えるものは「銀座」くらいしかありませんでした。
 
 徳山は空襲でほとんど市街は焼けました。委員会ができ、地元の意見を尊重しながら新しい町名が誕生していきました。私は「徳山は戦後の復興にあたって東京地名にあやかって復興を目指した」という期待のような都市伝説めいたものが存在することに気づきました。「気づいたらそうなっていた」という住民の証言こそ実相です。今宿地区の新しい町(新宿)、「岡田原」と「今宿」から「原宿」、戦前からある代々木小路(ダイダイショウジ)という通りの名前。有楽街と呼ばれていたのが今の有楽町です。戦後に天皇が御幸されたので御幸通。千代田も糀 (こうじ)町もありふれた地名です。そういう「くくり」で見ると、そのように見えるから不思議です。唯一「銀座」だけは戦後復興の期待があったようです。と言うより、歌謡曲にもたくさん唄われたように、日本人全体の憧れでした。原宿や桜木も東京地名だと当時意識した人はいなかったでしょう。横浜や川崎は市街ではありませんし、東京地名でもありません。晴海は「鼓海」が元になっています。
 郵便局、バス停、歩道橋、番地坂・・と地名の書かれたものを探してめぐるのはけっこう楽しいです。考え方を変えれば、「偶然でこれだけ東京地名が
集まった町」は全国でも珍しく、財産では?と市長さんに言ったことがあります。クリスマスのイルミネーション、徳山夜景のクルージングなど新しい観光資源が開発されつつあります。ボランティアガイドの人たちと意見交換をしてみたいと思います。みなさんもぶらタモリしてみては。
各期だより  東京マラソン顛末記           ■ 徳高25期  マッハン  (注 「マッハン」って誰だか分かるよね)

子供の頃から超の付くほどの運動オンチだった私が、ランニングを始めたのは、定年を迎え、仕事という大きなエクササイズがなくなり、このままノー負荷生活ではいけないと思ったからです。
 始めは、家の周り800メートルをゼイゼイと、走るというか歩くというか・・
 それでも、続けていくと少しずつ体の使い方がわかってきて、スピードはどうしたって無理だけど、持久力は徐々に伸ばせるのが楽しくなってきました。
 始めに「大津島ポテトマラソン大会5Kシニアの部」に参加してみると、その非日常な楽しさにハマり、いくつかの大会にも参加してみるようになりました。
 10K、ハーフと距離も伸ばせると、目標は、大胆にも「いつかは、フルマラソンを、いつかは、東京マラソンを走りたい」になりました。
 東京マラソンは、参加ランナーは約4万人、抽選倍率は約12倍のスタートに立つだけでも“超狭き門”の大会です。
 3回目のチャレンジで、始めて当選したときは、既にもう42キロ走り終わったかのような成功感でした。
 迎えた3月3日、東京マラソンの当日は朝から冷たい雨でした。
 新宿駅から都庁まで、多くの外国人を含め、選手、応援、ボランティア等10万人以上の大行列で、街はもうマラソン一色です。
 経験したことのない国際大会に身が引き締まります。
 選手入場ゲートから入場後は、各自の申告タイムごとにAからLまでの12箇所のスタート待機場所に移動します。フルマラソン未経験の私はもちろん最終出発のLブロックからスタートです。

 小雨の中で、約1時間待っていると、やっと、遠―くで、スタートのファンファーレが聞こえました。(もちろん小池知事もあの花吹雪も見えないのですが)
 更に20分を経過し、やっと、Lブロックメンバーも動き始め、約30分後に遂にスタートラインを超えて、いよいよあこがれの東京マラソンへスタートです。
 超混雑の都庁前で奇跡的に、前日からサポートしてくれたクラスメートのタケとせいちゃんを見つけることができ、とても幸先の良い予感がします。
 6車線をオール封鎖した広い道路を靖国通り、目白通り・と気持ちよく走っていたら・・あれ?
 冷たい雨とたっぷり補給したエネルギー飲料のせいで、普段のランニングでは経験のない切迫感がじわじわ・・とやってきました。
 沿道には約1kごと仮設のトイレが設置されていたけれど、この雨で冷えたのはみんな一緒なのでしょう。
 どこのトイレ場所も長蛇の列で、30分待ちだとアナウンスされます。
 何か所も過ごして、やっと、列の短いトイレを選択し飛び込みましたが、コンビニのトイレは1室待ち。結局、25分も費やしてしまい、やっと走路に戻ったら、もう辺りにランナーは誰も見えません。
 靖国通り6車線封鎖の道路の真ん中を私一人で走りました。
 それでも沿道の応援の方々は、そのランナー(私)に「頑張れー」と大声援をくださるので、恥ずかしくて仕方ないけれど、「頑張りますー」と手を振り続けスピードアップします。
 日本橋手前で、やっと前の集団に追いつきそのまま10kの関門に到達したら・・
 なんと!「タイムアウト」のアナウンスで、既にゲートは封鎖されています。
 えーーっ!!どーして!?スタートとトイレの時間ロスなのにそんな理不尽な!
 まだまだ、こんなに元気満々なのに・・これから30k十分走れるのに・・納得いかない!いかない!
 私の後からも続々とトイレ待ち犠牲者がゲートに到着し、口々みんな訴えています。
 海外からも約1万人以上の方々が参加していたけれど、仮設トイレは全て、「和式スタイル」でした。
 私の人生初東京マラソンは、残念ながらこういう顛末であっけなく終わってしまいました。折り返しの浅草寺に先回りし待ってくれたクラスメート二人にも、山口宇部空港便で来て15k地点で待機してくれていた夫にも大変申し訳ない結果となりましたが、あこがれの東京マラソンは、数多くの人々に支えられ、東京という街を走れる高揚感に満ちた本当に素晴らしい大会でした。
 私はこの失敗を是非次に生かし、リベンジしたいと思っています。動けるうちに。

あの人に聞く  脚本家 高32期 福田靖さん  NHK朝の連ドラ「まんぷく」の裏側
(画像をクリックすると大きい画像が見られます)


平成30年度 第32号
巻頭カラー  変わる駅前 変わる岐山通り
(画像をクリックすると大きい画像が見られます)
校長挨拶 校長 須藤恒史 (現在の徳高の状況)
   校長 須藤恒史先生

○ はじめに

 岐山会の皆様方には、ますます御清栄のこととお喜び申し上げます。平素から、母校の教育の充実・発展に格別の御厚情と御支援を賜り、心から感謝申し上げます。
 さて、平成三十年度は、二百九十五名の新入生を迎え、本校全日制八百八十四名、定時制二十九名、徳山北分校二十一名、鹿野分校十九名、計九百五十三名でスタートしました。入学式では、『新入生への三つのお願い』として、「学ぶ者としての謙虚さをもってほしいこと」、「決められたルールやマナーを守り、自覚と責任をもった学校生活を送ってほしいこと」、「自ら参画し参加する意思と姿勢をもってほしいこと」などを伝えました。また、保護者の方々には、「皆様と私たちは今日からお子様をよりよく育んでいくという同じ仕事に取り組むこととなりました」と伝え、協力して教育に携わっていただきたいことをお願いしました。
 生徒一人ひとりが 「徳高」 で学べる幸せを感じ、「徳高生」としての誇りと気概をもち、何事にも前向きにチャレンジしてほしいと、心から願っているところです。

○ 校訓・学校教育目標

 本校は、「真 健 和」の校訓のもと、「伝統を継承し、相互の信頼感を深め、不断の努力によって学力の充実した心身ともにたくましい生徒の育成をめざす」 ことを教育目標として、全校教職員が一丸となって指導を行っているところです。
 また、「知・徳・体の調和のとれた教育活動の推進」を引き続き本年度の学校教育目標とするとともに、「主体的な学びを伸長する学習活動・進路指導の推進」 「総合的な人間力の育成に向けた特別活動・体験学習の充実」「自主自立の精神と社会貢献への意欲・能力の育成」を具体的な目標として掲げ、分かる授業や興味・関心を高める授業の実践、部活動や学校行事の一層の充実などに努めております。今後とも、確かな学力と豊かな心などの「生きる力」を身に付けた生徒の育成に取り組み、生徒一人ひとりの夢の実現に向けた取組を進めてまいります。

〇  SSH事業の推進

 平成二十二年度から、「スーパーサイエンスハイスクール (SSH)」 の指定を文部科学省から受け、今年で九年目を迎えています。大学・地元企業・卒業生等と連携した体験学習やマレーシア海外研修などの取組を年々充実させながら、未来を担うグローバルな科学技術系人材、イノベーションの担い手となるサイエンスリーダーを育成する取組を行っています。
 また、平成二十七年度からは、理数科だけでなく普通科の生徒も対象にした取組を展開するとともに、平成二十九年度からは、「山口県周南地域発信!地域資源の活用による環境科学、リテラシーの醸成・向上」をテーマに、人材育成・地域貢献めざした研究に取り組むなど、山口県の理数教育をリ−ドする特色ある取り組みを行っているところです。

〇 やまぐち次世代型教育推進事業

 変化が激しい社会を主体的に生き抜いていく力を育成することが、学校教育に求められています。本校は、本年度から三年間、新学習指導要領で求められる「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた指導方法や評価方法などの研究・開発を行う「次世代型教育パイオニア校」 の指定を県教委から受けました。今後は、成果の普及などを通じて、県内教育を牽引する役割を、引き続き担っていきたいと考えています。

○ 進路指導・キャリア教育及び大学進学状

 本校では、本年度の重点目標として、「きめ細かな進路指導体制の確立」「目標達成のための学力養成と進路意識の洒養」を掲げ、各年次の重点指導を共有しながら、「自ら学ぶ生徒の育成」に取り組んでいるところです。
 今春の卒業生における国公立大学の現役合格者数は百九十三名で、開校以来最多、また、県内でも合格者数・合格率ともにトップという結果となりました。主な国公立大学の現役合格者数は、東京大学二名、京都大学一名、一橋大学一名、東京工業大学一名、名古屋大学一名、大阪大学五名、神戸大学二名、九州大学十二名、岡山大学十六名、広島大学十八名、山口大学四十九名でした。また、私立大学は、慶応大学四名、早稲田大学三名、津田塾大学一名、明治大学二名、同志社大学七名、立命館大学三十五名、関西大学十四名、関西学院大学十名、福岡大学四十八名などです。さらに、国公立大学の医歯薬現役合格者数は、医学部医学科二名、薬学部六名となっています。
 このように、これまでの取組の成果が着実に現れてきているところであり、今後とも、様々な分野で活躍する人材を輩出してきた伝統校としての強みを生かし、生徒一人ひとりの夢の実現をめざすとともに、未来を拓くたくましいリーダーの育成に向けて、進路指導の更なる充実を図ることとしております。
 また、本校では、勤労観や職業観の育成に加え、十年後、二十年後の自己を視野に置きながら、生徒一人ひとりが将来の自己の生き方・在り方について考えるキャリア教育を積極的に推進しております。具体的には、校歌の歌詞から引用し命名した 「魁 (さきがけ)講座」や各種講演会の開催、大学が実施するオープンキャンパスや体験学習への参加などにより、上級学校や職業等について学び、将来、社会人・職業人として自立していくために必要な意欲や態度の育成に取り組んでいます。

○ 特別活動の充実と部活動等の実績

 本校では、「文武両道」 の校風のもと、学校行事や生徒会活動、部活動が大変活発に行われています。特に、九月に開催する「運動会」と「徳高祭」は、多くの地域の方々も楽しみにされている行事となっていますが、これらの行事は、生徒会と有志で構成する実行委員会が中心となって企画・運営に当たっており、生徒が主体的に物事に取り組む中で、自主性や主体性、協調性、企画力や調整力などを身に付けるとともに、よりよい人間関係を築く場にもなっています。
 また、運動部十四部と文化部十六部の諸活動についても、各顧問の熱心な指導のもと、生徒たちの様々な活躍がみられます。本年度の主な実績(中国大会・全国大会出場) は次のとおりです。

《中国大会出場》
・剣道部(女子個人)
・柔道部(男子個人)
・陸上競技部 男子(4×100m、4×400mリレー)
         女子(400m、100mH)
・ソフトテニス部(男子団体・女子ダブルス)
・卓球部 (女子団体・女子ダブルス・女子シングルス)
・認定種目‥水泳(男子個人・女子個人)
       ‥空手(女子個人組手)

《全国大会出場》
全国高校総合体育大会
・ソフトボール部(男子)
全国高校総合文化祭
・吹奏楽部
・美術部
・棋道部‥将棋(男子団体・女子団体)
     ‥囲碁(男子団体・女子団体・男子個人・女子個人)
・放送部(朗読部門・CM部門)
・文芸部(散文部門・俳句部門)
第65回NHK杯全国高校コンテスト
・放送部(アナウンス部門・朗読部門・創作ラジオドラマ部門・ラジオドキュメント部門・テレビドキュメント部門)

○ おわりに

 これまでの 「大学入試センター試験」 に代わる「大学入学共通テスト」の実施や、「高校生のための学びの基礎診断」 の新設、社会に開かれた教育課程を基本的な考えとする「新学習指導要領」 の公示など、高等学校に関係する教育改革の大きな波が間近に迫っております。教育を取り巻く社会情勢は、グローバル化や人工知能などの進展を踏まえて大きく変化してきており、高等学校においては、こうした国際社会や国の動向を踏まえながら、「十分な知識・技能」を確実に身に付けることはもとより、これらを活用して、自ら答えを兄いだしていく「思考力・判断力・表現力等の能力」や、「主体性をもって多様な人々と協働して学ぶ態度やコミュニケーション能力」を身に付けた人材を育成することが求められています。
 学校としましては、今後とも、時代の変化に適切に対応しながら「文武両道一刀伝統を継承し、次代を担う品格と教養のある心豊かな人材の育成に努めてまいりますので、引き続き、御支援と御協力をいただきますようお願いいたします。
 終わりに、岐山会のますまの御発展と、会員の皆様の御活躍と御多幸を心からお祈りいたしまして、ご挨拶といたします。
25期掲示板 南紀白浜旅行記 ■徳高25期 佐井利信
(画像をクリックすると大きい画像が見られます)
 平成二十九年十一月十一日と十二日の二日間、徳高二十五期の同窓生で南紀白浜旅行へ行ってきました。二十五期同窓生の旅行は、これで四回目になります。
 一回目は平成二十三年の箱根でした。東京在住者が中心になって年一回続けてきた同期会が十回(年)目を迎える記念に、と企画されたのが最初です。
 二回目は平成二十六年の信州・松本。同期生が還暦を迎える記念に、と企画されました。この松本で、あまりの楽しさに味をしめた二代目会長のクマさんが、来年は鹿児島で!と宣言して、三回目・平成二十七年の鹿児島が決まりました。
 鹿児島では、さすがに連年の旅行はシンドイと思った仕切り役のマッちゃんが、次回は二年後の平成二十九年と決め、世話役に私を指名したのでした。
 行き先も決めず、世話役のお鉢だけ預けられた格好でしたが、関西在住の私を指名したのは「次は関西で」ということだと理解し、南紀白浜を選びました。
 鹿児島旅行での二日目、とある女性参加者から「次は宿でゆっくりさせてね」と言われ、白浜旅行のスケジュールはシンプルを心がけることに。旅費まで含めると参加者には随分散財させるので、世話役としてはつい盛りだくさんの旅行にしてしまい、同窓会旅行の目的からずれてしまいがちに。これを戒めるナイス・リクエストでした。
 こうして白浜一日目の観光は、パンダが見られるアドベンチャーワールドと、宿まで五分の千畳敷で南紀の太平洋に沈む夕陽観賞の二つだけ、二日目も、お土産を購入して道成寺こ寄った後は和歌山市内で昼食を済ませて再び電車、というシンプルなスケジュールになりました。
 参加者は総勢三十名で男性十六名に女性十四名。初参加が十名いる一万、四回全部参加した人が十一名 (たぶん)。地元徳山方面組が十一名、東京方面組が十二名、関西・中部組が七名という内訳です。
 東京組は八時十分発、徳山組は八時五十分発の新幹線で新大阪合流(*1)、特急くろしおに乗り換えて十三時三十五分に白浜到着(*2)、チャーターバス二十分ほどでアドベンチャーワールドへ (*3)。 ご婦人方にパンダが喜ばれるかと思っていたら、意外や意外、「ボク、パンダ見るの生まれて初めて!」と大ハシャギしていた男性がいたと後の感想記に。
 上野動物園に比べてかなりゆったりとパンダが見られる反面、上野動物園とは比較にならない入園料なので、イルカショーやアニマルショーにサファリパークも回って大忙し。このあたり貧乏性から抜け出せない世話役でした。


*1 久々の再会                          *2 白浜駅前                           *3 アドベンチャーワールド到着

 アドベンチャーワールドから、やはり二十分ほどで千畳敷へ。風は強くても晴れてくれたおかげで、太平洋の水平線に沈む夕陽をバッチリ観賞できました (*4)。
 各写真に写っている茶色の旗は、今回の旅行に合わせて同期の貴美子さんとマッハンさんが協力して作成してくれた、徳高二十五期生のオリジナル・フラッグです。マッハンさんからは、宅配便で宿にお酒とおつまみの差し入れまで届けていただきました。
 宿では、一風呂浴びて三代目会長のミヤちゃんが挨拶し、二代目会長のクマさんの音頭で乾杯して一次会の開始途中、最後の合流者サッカーのケンちゃんが到着して全員集合。初参加の十人から、高校時代の思い出話や近況報告をしてもらいましたが、皆さんお話上手で楽しく食事。
 最後に、二年後の旅行の世話役が紹介され、記念撮影(*5) の後、カラオケラウンジで二次会。
 今回は、東京同窓会からカラオケ四天王のうち二人が参加していたので東京組の独壇場かと思いきや、関西組のケンちゃんが妙に艶っぽい歌声を披露。そのうち中部地区のミチコさんが、味のある選曲で加藤登紀子を二曲続け、曲後「厚かましくも二曲続けてしまいました」と断ったことで、俄然男性陣がヒートアップ。
 カラオケで、女性が進んで歌ってくれるだけでも大歓迎なのに、「厚かましくも」などと奥ゆかしさを垣間見せられ、以後男性陣が我も我もとマイクを握り、カラオケ四天王もキングの定位置を守るために大奮闘。とっても楽しいカラオケ二次会でした。
 三次会は、通しで割り当てられた八部屋の中央付近の男性部屋。それぞれ昔話や近況報告に話の花を咲かせたと、後の感想記(二十五期掲示板)に綴られていましたが、なかでもトイレさんの『教祖様誕生譚』は秀逸で、掲示板では旅行後も随分長く楽しめました。
 二日目は、バスで白浜から和歌山市まで戻るのですが、途中とれとれ市場でお土産を購入し、道成寺に寄って絵解き説法を聴き、和歌山市内のがんこ六三園で昼食です。
 道成寺は、安珍・清姫伝説に端を発する能楽・歌舞伎・文楽など、古典芸能のメッカですが、清姫が鐘楼ごと燃やして以来鐘の無いお寺であるのも現実なので、鐘=お金、の無い貧困老人にならないようにと、がんこ六三園での昼食をセットしました。
 六三園は、大正期に大成功を収めた和歌山出身の相場師・松井伊助が六十三歳の時に建てたことからこの名で呼ばれる別荘ですが、ちょうど六十三歳を迎える我々徳高二十五期生にはピッタリ!というわけです。
 部屋に通されてみると、風情のある大正ガラスの総ガラス張り。庭園に面した大部屋が丸々我々一行にリザーブされていて感激でした (*6)。



*4 千畳敷・南紀の太平洋と夕陽               *5 今日の締めくくりに                      *6 がんこ六三園

 一足先に足を踏み入れたのが男性陣だったことから、一目部屋を見るなり、庭に面した席を女性に、庭を背にした席を男性に、という声が自然に湧き上がりました。
 松井伊助にあやからずとも、女性を大切にするこの姿勢があれば、きっと老後の生活も安泰間違いなしでしょう。
 ところで今回の旅行では、我々が徳高に入学した年の合格発表の新聞コピーが、皆に配布されました。「日刊徳山公論」昭和四十五年三月十八日号・公立高校の合格者欄です。
 ながめていると、四百余りある合格者名の一番最初の人(男性)と、一番最後の人(女性) とが、いずれも今回初めて同窓会旅行に参加していることに気付きました。中学校ごとに掲載されているので、一番最初の人は中核中学(岐陽中) のトップバッターなのに対し、一番最後の人は、県外出身者で徳高とは緑もゆかりもないのに親の都合でたまたま入学した人です。
 合格発表のときは勿論、卒業するまで全く接点がなかったはずのこの二人が、卒業後四十五年も経って、遠く南紀白浜の空の下で、ともに一夜の歓を尽くすことになろうとは・・・・
 まことに感慨深いものがあります。
 帰りの電車で女性の初参加者から「次の旅行でも必ず声をかけてね」と言われたことと、この最初と最後の二人の邂逅をセッティングできたこととが、今回世話役を務めたことへの一番のご褒美だったのかな、という気がしています。ともあれ、がんこ六三園の昼食ですべてのスケジュールを終え、皆様無事ご自宅まで帰られたことが何よりでした。
25期掲示板 山陽道を歩こう  ■徳高25期 西村修一
(画像をクリックすると大きい画像が見られます)
 還暦を過ぎると、筋力の衰えを感じます。健康に何かいいことしたい。私は十年前より「山陽道を歩こう」を主宰しております。今年で十七回目を迎えます。周南地域の山陽道を本陣から本陣へ、十キロ程度に区切って、史跡や寺社に寄り道しながら、パフォーマンスを盛り込んで、ワイワイ老若男女、家族向けに楽しく歩いております。最近では、ボーイスカウトなどが参加してくれるようになりました。最高齢は九十歳、最少年齢記録は五歳で、完歩しておられます。
 徳山城下を起点にして西は三田尻御茶屋へ、東は玖珂本陣を目指して、参勤交代・下向をします。「本陣」とは、大名行列の休憩所や宿泊施設のことです。皆さん、周南市には、「福川本陣」や「呼坂本陣」があるのをご存知ですか。
 スタッフは全員仮装をします。うっかり八兵衛さんや山頭火さんもいます。私も陣羽織で歩きます。
 今年は、十一月三日に、「徳山城下→花岡本陣」を予定しております。ちょうど、稲荷祭で、狐の嫁入りに合流します。さあ岐山会の皆さんも、私と一緒に歩きましょう。詳しくは、広報
やCCSの文字放送にて。


タクシーでわが街の酒蔵ツアー
(画像をクリックすると大きい画像が見られます)
お酒好きなあなたに、会報の記事をご紹介します。
周南市にも灘にも負けない酒蔵めぐりのツアーがあります。
是非、是非、周南のうまいお酒を味わってみてはいかがでしょうか。


(おまけ)徳山高校放送部制作 「たぬきとまめさん」 證誠寺のたぬきばやしの謎
これは、会報には掲載されていませんが、総会で入手したのでご紹介します。
ビデオには、次のような放送部の紹介文書が添えられていました。

この作品は、私たち放送部が、平成29年度第64回 NHK全国高校放送コンテスト「テレビドキュメント部門」に出品したものです。毎年、大運動会で踊り継がれている「證誠寺の狸ばやし」が、どんな経緯で始まったかに興味を持ち、実際に證誠寺を訪れるなど、数々の取材をして作りました。コンテストの8分以内という規約上、インタビューから得た貴重な情報を一部しか使えなかった事が心残りですが、ご協力いただいた皆様との出会いに感謝し、大切にしている作品です。
 この作品で使用した写真、インタビューなどは大会に出品する範囲で各方面から許諾をいただいておりますが、販売許諾はとっておりません。お取り扱いにはご注意ください。多くの同窓生の皆様に見ていただき、今後とも徳山高校放送部へのご支援ご協力をよろしくお願い申し上げます。
徳山高校放送部一同

ビデオ「たぬきとまめさん」(こちらをクリックしてください)
平成29年度 第31号
巻頭カラー  徳高文化祭  部活動行進風景(運動会)
(画像をクリックすると大きい画像が見られます)
校長挨拶 校長 須藤恒史 (現在の徳高の状況)
(画像をクリックして、大きい画像でお読み下さい)
25期掲示板 〜周南発〜 ■徳高25期 船本洋子

 25期は、随分前からホームページを立ち上げていて、掲示板が最近賑やかになってきました。
 4年ごと、オリンピックの年に開催している25期の同窓会は、ほぼ毎回80名を超える参加ですが、お盆に開催することもあり、なかなか参加が難しい同級生もいます。
  そんな同級生に、少しでも故郷の風を届けたいと思い、私も掲示板の書き込みに参加しています。東川の桜や「銀座」「青山町」「代々木」「晴海」など東京と同じ地名を紹介したり、地方の新聞から地元の情報を提供したりしています。
 先日は、平和大橋から東に向かう糀町通り。通称きらら通りを紹介しました。この通りの両側には、石の球体のオブジェが並んでいます。これを写メでとり、説明文をメモしていると、信号待ちの車の中から痛い視線を感じます。そして、「この石は廻るはず・・・」と手でくるくる廻していると、歩道を歩いている人の怪訝そうな視線を感じます。きっと、不審者と思われているのでしょう。「大丈夫!掲示板のため!大丈夫!」と言い聞かせながら、頑張りました。
 25期掲示板のいいところは、どんな書き込みをしても、誰かが回答してくれるところです。行ってみたい東京の美術展を紹介すると、誰かが代わりに行って報告してくれたり、児玉神社の家紋の謎(毛利の殿様と近い)について質問すると答えてくれたり、パソコンの使い方から相続の仕方、健康相談など、オールマイティに答えてくれます。
 また、ハンドルネームで投稿されており、「SAI君」って、櫛浜小、太華中出身の人なのかなぁ?「きなこちゃん」って誰だろう?と卒業アルバムを見ながら推測して楽しんでいます。
 その他、海外出張の飛行機での爆笑話、高校時代の日記や時効になった暴露話、救命救急の仕方、文学について、お寺巡り、お勧めの観光地、同級生の動向、イベント情報、感動した映画の話等、書きたい時に書きたい人が書くので、時々前後も繋がっていません。
 今は、2年前から始まった還暦旅行の第三弾、今秋の南紀白浜旅行の話が盛り上がっています。先日、幹事さんが下見に行き、旅程や宿の確認や観光地に関する薀蓄等が、連続小説のようです。(この原稿が出る頃は、どんな話題になっているかなぁ)

  まじめな人はまじめ〜に
  博学の人はみんなをうならせ
  人生を楽しんでいる人は楽しさを
  情報通の人はレアな情報を
  お笑い好きな人はツボに入る笑いを
  のんきな人は思いつくままに

自分らしく書き込めるのが、25期の掲示板の一番の良さです。25期のみんな、是非書き込みに参加してください。北海道や沖縄の暮らしとか海外在住の話など、もっともっと広がるといいなあと思います。私も、できるだけ故郷の風を届けられるようにチャレンジします。25期以外の方も、良かったら、のぞきに来てくださいね。

(掲示板は「徳山高校25期同窓会 掲示板」で検索して下さい。

平成28年度 第30号
岐山会報30号記念 巻頭カラー特集 運動会 アーチの歴史 〜アーチの中に世相が見える〜
(画像をクリックすると大きい画像が見られます)
還暦旅行 Part-2 in Kagoshima 旅行記(徳高25期 松田義雄 坂本邦彦)
平成27年度 第29号
徳高栄光の記録庫 (応接室の優勝カップ・盾・賞状)



徳山高校の応接室(玄関を入ってすぐ左の部屋)は、来客の応接や小規模会議で利用する部屋ですが、「徳高の歴史と伝統の記録庫」の一面も持っています。
キャビネットには優勝カップ・盾・賞状が並び、文武両道をゆく徳山高校の足跡が一望できます。
また、歴代卒業アルバムや同窓会誌・校友会誌などの資料も所蔵していますので、母校を訪れた際は「応接室見学」をしてみてください。


【優勝旗】
徳山高校野球部後援会・周防高校野球優勝旗・周南高校ハンドボール優勝旗・全国柔道予選会優勝旗
【トロフィー上部の棚】
・第69回全国高等学校野球大会山口県優勝
・貢献賞平成6年度全国高校総体弓道女子団体三位
・T・F・2000中国エリア大会奨励賞中国放送(財)ヤマハ音楽振興会
・第24回全国高校将棋選手権山口県代表決定大会団体戦優勝
・徳山高校体育祭クラスマッチ優勝
・グランプリ:ハイスクールミュージックフェスティバルinビッグシェル平成12年8月24日
・昭和53年度全国高等学校ハンドボール選抜大会女子準優勝
・第25回NHK全国放送コンテスト山口県大会朗読部門最優秀校
・周東選抜高等学校野球大会(昭和33年)
・1963年度日本スポーツ賞ハンドボール山口県徳山高校

【トロフィー下部の棚】
・第47回全国高等学校弁論大会決勝大会優勝(討論の部)
・高等学校剣道の部南陽地区武道振興会
・山口県議会議長杯争奪選抜高等学校野球大会
・徳山地区軟式庭球大会
・1987.8第69回全国高等学校や旧選手権大会出場記念
・第2回徳山地区柔道大会優勝
・第6回全国高校囲碁山口県大会団体優勝
・市民ハンドボール大会女子の部優勝

【トロフィー/楯:右の棚】
・柳井市体育会長賞
・市民武道大会柔道優勝
・山口県ハンドボール協会長(女子の部)優勝
・市民ハンドボール大会(一般女子の部)優勝
・下松市長杯周東高校バスケットボール大会優勝
・徳山市民卓球大会優勝
・下松柔道大会優勝
・贈ムラシゲ運動具店
・健康保険第8回全国勤労者陸上競技大会山口県知事賞優勝
・第56回徳山駅伝競走大会総合優勝
・第23回中国高校柔道大会県予選優勝
・徳山地区高校体育大会篭球女子優勝
・山口県室内ハンドボール選手権大会賞
【トロフィー/楯:左の棚】
・山口県高等学校総合文化祭将棋部門山口県予選大体優勝
・第6回起業記念柔道大会優勝
・山口県高校新人バスケットボール周防地区選手権大会男子の部優勝
・第9回中国高等学校ハンドボール選手権大会
・第30回山口県学校美術展覧会高等学校の部最優秀校
・昭和47年度全国小論文コンテスト学校賞
・第7回全国高等学校総合文化祭感謝状
・第3回科学の甲子園山口県大会第2位(H25.11.17)
・女子ソフトテニス部カムバック栄誉賞(H267.9)
第31回女子大島駅伝競走の部第3位(2013.12.15)

【楯:左の棚】
・第9回中国高校柔道大会7年連続出場
・山口県ハンドボール協会長
・山口県立徳山高等学校1973年
・全国高等学校体育連盟ハンドボール部表彰状
・1999山口県高等学校選手権大会男子総合第3位
・1999山口県高等学校選手権大会総合第3位
・平成13年度山口県高等学校選手権大会女子の部第3位
・1969年全国高等学校体育連盟ハンドボール部表彰
・平成13年度山口県高等学校選手権大会総合第4位
【楯:右の棚】
・日本赤十字社
・第36回山口県学校美術展覧会優秀賞
・第29回山口県読書感想文コンクール優秀学校賞
・第36回山口県読書感想文コンクール優秀学校賞
・第42回山口県読書感想文コンクール優秀学校賞
・第14回中国高等学校柔道山口県予選大会準優勝
・第20回全国高校放送コンテスト山口県予選(ラジオテーマ)
・第25回中国高校柔道大会準優勝
・第34回中国高校柔道大会山口県予選男子団体戦第1位
・第8回全国高校作品コンクール優秀校
・第7回光製鉄所起業記念奉納柔道大会高校の部優勝(1962.5.20)

【楯:左の棚】
・第58回NHK杯全国高校放送コンテスト山口放送局長賞
 アナウンス部門
・第58回NHK杯全国高校放送コンテスト山口放送局長賞
 ラジオドキュメント部門
・第58回NHK杯全国高校放送コンテスト山口放送局長賞
 ラジオドラマ部門
・第58回NHK杯全国高校放送コンテスト山口放送局長賞
 朗読部門
・2002やまぐち短歌大会優秀校
・平成24年度山口県高等学校総合体育大会女子の部第3位
・平成24年度山口県高等学校総合体育大会総合の部第2位
・平成25年度山口県高等学校総合体育大会総合の部第2位
・1978年全国高等学校囲碁選手権大会男子の部優勝
【楯:右の棚】
・昭和44年度旺文社名作読後感想文全国コンクール優秀校
・昭和41年度旺文社文庫読後感想文コンクール優秀校
・徳山市卓球大会優勝
・第13回日本スポーツ賞受賞記念ハンドボール男女チーム
・光製鉄所第10回起業記念武道大会剣道の部優勝(1965.5)
・第8回全国高等学校ラジオ作品コンクール丸善石油賞
・光製鉄所第8回起業記念柔道大会優勝(1963)
・第58回山口県学校美術展覧会最優秀賞
・平成17年度山口県高等学校選手権大会総合第2位
校長挨拶 校長 倉田伸治 (現在の徳高の状況)
倉田校長先生
○はじめに
 岐山会の皆様方には、ますます御清栄のこととお喜び申し上げます。平素から、母校の教育活動に格別な御厚情と御支援を賜り、心からお礼申し上げます。
 本校に着任して三か月余りがたちました。この間、朝夕の生徒の登下校時の姿、教室や体育館などでの勉学に取り組む姿、儀式や講演会、部活動やその試合・コンクール等での姿など、様々な場面での徳高生の姿を目にし、徳高生は 「やるべきことをきちんとやることができる生徒」 であると感じているところです。一人ひとりの生徒が、高校3年間を通じて、やるべきことをやり、充実した学校生活を送り、知・徳・体のバランスのとれた人として成長してくれることを願っています。

○学校教育目標について
 本校では、「伝統を継承し、相互の信頼感を深め、不断の努力によって学力の充実した心身ともにたくましい生徒の育成を目指す」 ことを教育目標として、「将来、社会に責献できる自立した心豊かな人材の育成」 に向けて、「豊かな人間性と、志を成し遂げる意志、学力及び体力の育成」 「失敗や挫折を乗り越えることのできる精神力の育成」 「自他を大切にし、感謝する心の育成」などに、全校体制で指導してきたところです。
 本年度は、「一勢いと動きのある学校づくり」 「二 生徒や授業が自慢の学校づくり」を学校教育目標として掲げ、わかる授業、興味・関心を高める授業の実践などに努めるとともに、部活動や学校行事の一層の充実を図ることなどにより、引き続き、確かな学力と豊かな心などの「生きる力」を身に付けた生徒の育成に取り組んでいるところです。
 また、生徒が自ら設定するチャレンジ目標は、「温故知新〜過去の経験を生かし、築く徳高生徒会〜」 であり、生徒一人ひとりが目標を意識しつつ日々の生活を送っているものと思います。

○進学型単位制の導入と第二期SSH
 事業の推進
 本年度の入学生から単位制を実施することにより、生徒が興味.・関心や進路希望などを踏まえながら、学校設定科目も含め、より多様な教科・科目の中から学ぶ科目を選択できる教育課程を実施しているところです。
 また、本校では文部科学省からスーパーサイエンスハイスクール (SSH)事業の実施校として指定され、平成二十二年度から五年間にわたり「専門性を備え、国際社会の中で科学技術に携わり貢献できる自立した人材の成」を推進してきました。本年度からは第二期の指定を受け、一期目の研究開発の成果と課題を踏まえながら、今後五年間にわたり全校生徒を対象に「イノベーションの担い手となるサイエンスリーダー育成プロジェクト」を実施し、科学技術に対する興味・関心を引き出す教材及びプログラムを実践
するとともに、徳高型アクティブラーニングの取組などを進めることで、バランスのとれた教養性・専門性・統合性を備えたサイエンスリーダーを育成することとしています。具体的には、科学技術の事象と社会における営みを主要な題材として、生徒の「モチベーションの向上」 「主体的な研究力の伸長」 「コミュニケーションの拡大」を
三つの柱に位置付け、科学技術観・科学実践力・国際感覚を育成するカリキュラムの編成や高度な学習環境・指導方法・評価方法の開発、地域ネットワーク構築などに取り組んでいます。

○大学進学状況について
 今春、徳山高校全日制を卒業した3年生317名は、大学進学でも健闘しました。国公立大学の現役合格者数は162名で、3年連続160名(50%)を超えています。具体的には、主な国公立大学の現役合格者数では、東京大学1名、京都大学3名、大阪大学6名、神戸大学4名、九州大学15名、一橋大学1名、お茶の水女子大学1名、岡山大学11名、広島大学12名、山口大学41名、熊本大学6名、鹿児島大学6名などでした。また、私立大学においては、慶応大学6名、早稲田大学23名、明治大学12名、法政大学6名、同志社大学13名、立命館大学33名、関西大学12名、関西学院大学9名、福岡大学14名などです。さらに、国公立大学の医歯薬現役合格者数は、医学部医学科7名、薬学部7名、歯学部1名となっています。
 本校は、「自ら学ぶ生徒の育成」に向けて、進路指導目標の5つの柱として、「授業の一層の充実」 「自己学習力の育成」 「キャリア教育の充実」「早期受験態勢づくり」 「山口県の中核校としての自覚」を掲げています。今後とも、生徒一人ひとりの夢の実現をめざすとともに、未来を拓くたくましいリーダーの育成に向けて、様々な分野で活躍する人材を輩出してきた伝統校の強みを活かした進路指導の更なる充実を図ってまいります。

○キャリア教育の推進
 本校では、勤労観や職業観の育成に加え、十年後、二十年後の自己を視野に置きながら、生徒一人ひとりが将来の自己の生き方・在り方について考えるキャリア教育を推進しています。具体的には、校歌の歌詞から引用し命名した 「魁講座」や各種講演会の開催、大学が実施するオープンキャンパスや体験学習への参加などにより、上級学校や職業等について学び、将来、社会人・職業人として自立していくために必要な意欲や態度の育成などに取り組んでいます。

○特別活動の充実と部活動等の実薪について
 本校では、文武両道の校風のもと、各種の行事や生徒会活動、部活動が大変活発に行われています。特に、9月に開催する「運動会」 「徳高祭」は、多くの地域の方々も楽しみにされている行事となっていますが、これらの行事は、生徒会と有志で構成する実行委員会が中心となって企画・運営に当たっており、生徒が主体的に物事に取り組む中で、自主性や主体性、協調性、企画力や調整力などを身に付けるとともに、より良い人間関係を築く場にもなっているところです。
 また、運動部14部と文化部16部の諸活動についても、各顧問の熱心な指導のもと、生徒たちの様々な活躍がみられます。今年度の4月から7月末日までの主な実績(全国大会出場) は次の通りです。
・全国高校総合体育大会
  柔道競技     男子個人73kg級
  ソフトテニス競技 女子個人ダブルス
  ソフトボール競技 男子団体
・全国高校総合文化祭
  文芸部門 短歌・俳句・文芸誌
  放送部門 アナウンス・朗読
  将棋部門 男子団体・女子団体
  囲碁部門 団体
・第62回NHK杯全国高校コンテスト(放送部)
  アナウンス部門
  創作ラジオドラマ部門
  創作テレビドラマ部門
  研究発表部門
・第39回文部科学大臣杯全国高枚囲碁選手権大会
  男子団体・男子個人(棋道部)
・第18回全国高校俳句甲子園大会 (俳句甲子園)
  徳山高校Aチーム (文芸部)
・第28回全国高校将棋竜王戦
  2年男子(棋道都)
・全国高校地域研究発表会(地歴部)

○おわりに
 近年、教育を取り巻く社会情勢は、グローバル化や高度情報化の進展など大きく変化してきており、学校においては、基本的な知識・技能に加え、思考力、判断力、表現力などの確かな学力や豊かな人間性など、いわゆる生きる力を身に付けさせることが求められています。
 こうした中、本校では、「将来、社会に貢献できる自立した心豊かな人材の育成」に向けて、様々な取組を進めてきましたが、今後とも、時代の変化に適切に対応しながら、次代を担う心豊かな人を育成できるよう、よりよい教育の実施に努めて参りますので、岐山会の皆様には、引き続き御支援と御協力をいただきますようお願いいたします。
 終わりに、岐山全会員の皆様方の今後ますますの御健勝と御発展を心からお祈りいたしまして、御挨拶といたします。
徳高25期生の居住地分布 ■徳高25期 坂本邦彦

 今年の月一日をもって、我々二十五期全員がめでたく還暦を迎えた。顧みれば高校卒業後進学のために多くの者が郷里を離れた。そして大学をはじめとする進学先卒業後は地元に戻っての就職する者、遠隔の地で就職する者、結婚で住所が変わる者、さらに転勤のための転居等々、住所変更の原因となる人生のイベントは、おそらく誰もが何度か経験したに違いない。住所の変更は同窓会名簿の作成者にとってもっとも頭を悩ます要因であるが、我が二十五期においては友弘充洋君という優秀な事務局長により、住所録が日々更新されている。
 昭和四十八年三月に挙行された卒業式の式次第(二十五期住川睦子さん提供)によれば、二十五期の卒業生数は四百二十七名(男二百二十九名、女百九十八名)であるが、二十五期生名簿登録者数は四百三十名である。転校した者が含まれているからである。直近の住所録をみると、周南市在住者は百四十名、周南市以外の山口県内が五十六名、山口県以外の中国地方が二十五名、九州十三名(沖縄0)、四国一名、近畿三十五名、中部九名、関東六十名、東北・北海道各一名、海外二名であった。東京や大阪は予想通り多いのであるが、率直なところ地元にこれだけ残っているとは意外だった。もっと少ないと思っていた。また女性の方が地元定着率が高いのかと思いきや、この点での男女差はほとんどなかった。さらに文系・理系に分けて地元定着率をみると、文系クラスでは約三十五、理系クラスでは三十%弱が周南市内に居住している。理系の地元定着率がやや少ないのは、就職先が要因になっているものと思われる。
 なお、住所を把握できていない居住先不明者は五十七名、物故者が十六名である。住所変更の動きは五十歳代に入ると急速に少なくなってきた。そして今還暦を迎え、多くの者が定年を迎えた。未知なる世界への突入でもある。今後住所に動きがあるとすれば、地元へのUターンや終の棲家を求めての移住等が想像される。すでに移住の意志表示をした者もいる。さて、これから我々はどこでどう生きるか。来年の二十五期同窓会が楽しみである。

101歳で25個の世界記録(長岡三重子さん 徳女19期)


田布施町のご自宅を訪問

 テレビのニュース、雑誌等でも何度も取り上げられている「山口県田布施町の百歳の現役スイマーのおばあちゃん」をご存知の方も多いと思いますが、その長岡三重子さんが徳山女学校出身、岐山会の大先輩だという事を知っている同窓生は少ないのではないでしょうか。
 岐山会報編集委員会でも、以前から是非長岡さんのことを記事にしたいと考えておりましたが、なにせ今や時の人、百歳を超えられてからはテレビ局が特集を組んだり雑誌依頼が殺到しているようなので、取材を申し込むのは心苦しかったのですが、編集委員会のメンバーである徳山高校の三輪先生のご自宅が田布施で長岡さんのご近所ということでアポを取って頂き、編集委員二名とともに6月21日の日曜日に田布施町のご自宅に取材にお伺いしました。
 長岡さんは94歳まで、わら製品の卸業である長岡商店をひとりで続けてこられ、今も店舗兼の旧家の広いご自宅で一人暮らし、食事も掃除も一人でこなされて、水泳のレースがある時に横浜に住んでいるご長男の宏行さんが実家に帰って長岡さんの面倒を見る、という生活をされています。この日もレースが近かったので、主に宏行さんにお話を伺う形で取材させて頂きました。

 まずご自宅に伺ってびっくりしたのは、家の大きさもさることながら、築百年を越す旧家の造りなので土間や中庭の池などもそのまま。百歳のひとり暮らしの住環境としては厳しすぎるんじゃないかという思いでした。まずは二階のトロフィーや賞状を置いている部屋で話をしましょうと促された階段。「長岡さんもこの階段を上がるんですか!」と思わず聞いてしまったほど急な階段です。
 ご長男と言っても宏行さんも75歳で後期高齢者の年齢の方なのですが、本当にお元気で話も面白く、端から見ていると長岡さんと親子喧嘩か親子漫才を見ているような息の合った掛け合いをされていました。元々宏行さんがマスターズ水泳の選手で、世界大会に出る際に長岡さんを連れ出して大会に出場させたら銀メダル(九十歳の時)、そこから長岡さんが本気で水泳に取り組むようになったそうです。
 長岡さんは宏行さんの隣りで終始にこにこ。とても百一歳とは思えない肌の色艶で、取材前に想像していたイメージよりも遥かに若々しい方でした。
 ご長男の宏行さんは長岡さんのこれまでの水泳の記録の詳細はもちろん、記事が載った週刊誌や雑誌を全部きちんと保存されているほか、出演したテレビや各局のニュース映像(50回以上!)も全てディスクに管理されてマネージャーのような役割もされています。長岡さんの大記録の影には宏行さんの献身的なサポートがあってのものという感じです。

 五十年自然体の生き方を

 長岡三重子さんは一九一四年(大正三年)の生まれで徳山女学校卒業後の昭和十三年、23歳で田布施町の商家に嫁いで専業主婦をされていましたが、53歳の時に夫を亡くして事業をひとりで継いでからが長岡さん流の自然体の生き方の真骨頂です。
 商売をして脳を使っている、経済的にも安定していたので能楽を趣味にされました。趣味といっても観世流の本格的な能で、厳しく鍛えられて三十数年間には国立能楽堂で舞われたこともあります。ところが膝を悪くして中断せざるを得なくなり、リハビリ目的で水泳を始めたのが80歳の時です。最初は25mも泳げなかったので水中ウォーキングから。その後、無事に能に復帰できましたが今度は耳が悪くなり88歳で断念。そこで新たな趣味として本格的に取り組んだのが水泳なのです。それにしても88歳で新たな趣味を見つけるとは驚くばかりです。

 記録づくめの九十歳代

 何事も極めようとするタイプの長岡さんは、能楽も最高の先生に習うために遠方まで行くほどだったので、水泳も最初我流で泳いでいて満足できなかったのでしょう、91歳からコーチに付いて本格的に練習するようになりました。三十数年問も能をやっていたおかげで腹筋や背筋が鍛えられていたので背中が曲がっていない事が水泳で活きたということです。長岡さんの得意な泳法は背泳ぎで、クロールで泳ぐよりも背泳ぎの方が早いので自由形でも背泳ぎで泳ぎます。
 それからは泳ぐたびに新記録。マスターズは5歳毎に区分が分かれており、本格的にレースに出場するようになってからは、前ページの表のように全ての区分で世界新記録を樹立、唯一持っていなかった1500メートル自由形も、今年の4月に三回目の挑戦で成功。短水路で1500メートル泳ぎきるには30往復もするので体力的にかなりきついのですが、1時間15分54秒39で見事完泳し、この記録は国際水泳連盟から正式な世界記録と認定され、長岡さんの持つ世界記録は25個となりました。



逆バリアフリーという生活

 今回長岡さんのご自宅にお伺いして百歳の方、しかも一人暮らしの住環境の疑問が頭から離れなかったのですが、長岡さんの話を聞くうちに「そういう考え方もあるのか!」と感心しました。
 長岡さんの家は建坪が180坪もあるような家で、商売をやっているから自分が動かなきや家が成り立たない。毎日家の戸を全部開けて掃除をして夕方になるとまた閉めて回る。食事は三食自炊で買い物はリュックを背負ってスーパーまで歩いて往復。
 そんな生活の中に「水泳」が入って来たものだから、ますます動くのでお腹がすいて、それまでは野菜や刺身が好物だったのが肉食″に変身されたそうです。95歳で年間55本ものレースに出場するのですからすごい体力です。
 長岡さんの家が旧家の造りでバリアフリーと真反対の生活を余儀なくされたことや、自炊生活、クルマにも自転車にも乗らなくてとにかく歩く生活を続けてきたことが水泳での大記録に繋がったとも言えます。
 「バリアフリーが高齢者に優しいと思いますか?家の中を全部バリアフリーにして楽な生活に頼ってしまったら、ますます外に出られんようになりますよ。ここから出るなー・″と宣言して刑務所に閉じ込めたようなものですよ。今世の中の70歳や80歳の人は自分の思いどおりに生きて不摂生をして、動けなくなって家をバリアフリーにするから補助金をくれ、とクくれくれ集団″になってる人ばかり。そうならないために努力して元気で頑張っちょる人からも保険料を取るわけでしょ、おかしいですよ!」と宏行さんは力説されます。
 あえてバリアフリーにしない生活の大切さということが、長岡さんを見ていると生きたお手本のように感じました。

さらに目標を持って

 さて、今年100歳〜104歳の区分の全ての種目で世界記録を作った長岡さん、今後の目標をお聞きすると、まだまだ水泳を続けていくことに変わりないという事ですが、マスターズの次の105歳の区分まではあと三年以上あるので目標が遠く、少々燃え尽き症候群のようになっているということでした。その分、取材の方は三日に1回ぐらいと前にも増して頻度が増えたということなので、違った意味で当分騒がしい時間が続くかもしれません。
 今回の取材で、長岡三重子さんご本人からはあまり長々とお話は開けませんでしたが、岐山会の後輩へのメッセージということで頂いた言葉は、
「一生懸命やるということです」
本当に深い言葉だと思います。これからもさらに記録を伸ばして私達に夢と元気を与えて頂きたいと恩いました。
(取材撮影) 三輪 敦(高27期)  三分一 幸治(高33期)  萩原 安貴子(高33期)
徳山女学校に学徒動員で戦争を経験し、終戦後の復興を常に徳山の中心部で経験し、今も現役で有楽ホテルを支え続けるおかみさん
(河村トミエさん 徳女33期)

 JR徳山駅の正面西側にある有楽ホテル。今の建物は昭和46年に建てられたもので、築44年が経過しても徳山駅からの利便性と畳の和室を備えている事から、ビジネスホテルが乱立する駅周辺でも今だ人気の老舗ホテルです。
 有楽ホテルの歴史は明治四十年まで遡りますが、昭和40年に有楽旅館の経営を御父上から引継いだ河村トミエさんは、その後五十年間も女手ひとつで有楽ホテルを支え続け、さらに昭和62年からは徳山商工会議所婦人部の初代会長に就任(平成4年退任)、また平成4年〜8年まで徳山周南法人会女性部初代会長、平成9年〜11年まで山口県法人会女性部初代会長と、常に地域の女性の代表として地元に貢献されています。
 そんな岐山会の大先輩の河村さんをお訪ねして女学校時代のお話を伺うと、意外な話しが飛び出しました。


徳女からただ一人の国体出場

 徳山女学校時代は陸上競技をやっていたという河村さん、当時は戦時中のため学校には二二年の間だけしか通えず、三年の時は学徒動員で海軍燃料廠に従事、終戦後に一年間専攻科に進まれました。
 その当時は、スポーツをやっていて急に止めたら結核になるという噂があったため、陸上競技(投てき競技)を続けた結果、ちょうど第一回国民体育大会が開催される時期になり、当時短棒投げ(樫の30センチ位の棒を遠くへ投げる競技)で42m13の山口県記録を持っていた河村さんへ、山口陸競協会から「トミちゃんやりなさい!」と推薦されたそうです。
 河村さん自身も栄えある国体選手として出場したいと思っていたところが、お父様は猛反対、これを最後に陸上競技を止めるという約束で承諾を得て、お父様も国体に応援に観に来てくださったそうです。
 国体の出場種目は『やり投げ』で、会場は京都の西京極競技場。開会式の入場行進曲は「りんごの歌」というのも今でもよく覚えていらっしゃいました。そして徳山高女という名前を背負って出場しているという責任感とプレッシャーは凄かったそうです。
 当時の国体の陸上女子の出場種目はわずか9種目です。時代背景も考えると、第一回の国体に出場されたことは本当に栄誉あることだと思います。

 壮絶な戦争体験

 まず河村さんのお話で驚く事は、ものすごい記憶力だということです。前述した陸上競技の記録の記憶も驚きですが、当時の校長先生の名前からやり投げの指導者の名前、お友達の名前もフルネームでスラスラ出て来ます。さすが旅館業を長くされている方ならではです。
 河村さんの女学生時代を振り返る中で学徒動員に従事した体験や空襲で焼け出された経験は決して忘れられないものだと思います。筆者は戦後生まれなので、今の出光の場所が海軍燃料廠であったことを知りません。
 当時の学徒動員での女学生の仕事は、朝8時頃学校に集まって燃料廠の中の第三工場(今の出光の中央突堤の近くにあった)まで歩いていき、大きなドラム缶の中を洗浄することが日課だったそうです。河村さんは徳山大空襲の時のことも鮮明に覚えていらっしゃいました。一九四五年5月10日、B29の大編隊が襲来して200キロ爆弾が落ちた時は、一ケ月か二ケ月の間空が真っ暗になるくらい燃え続けたそうです。燃料廠の防空壕に避難した人もたくさん亡くなったので、当時の燃料廠長の命令で、学徒動員は空襲時には燃
料廠の外に出すことが徹底され、遠石八幡宮の地下に作ってあった防空壕に避難することにしてあったそうです。
 そして7月26日には徳山市街地に再びB29の編隊が焼夷弾攻撃を行い、女学校の校舎をはじめ河村さんの実家も全部焼けてしまったそうです。
 焼け出された徳女の跡は奉安殿が残っただけで授業をするには校舎がありません。当時学校当局の指示があったかどうかは生徒にはわからなかったそうですが、校舎を建てる資金集めのために生徒も協力したそうです。岩徳線方面から連れて来た大工さんが基礎を作り、左官さんの手伝いを女学生ももんぺ姿で協力しました。出来上がったバラック建ての校舎は冬はすきま風が吹き込んで暖房器具などは想像もつかない状況だったそうです。
 校舎が完成した後に、その大工さんにお願いして徳山駅前の実家の建設をしてもらって隣りにバラックを建て、飲食店(喜桜(きよう)食堂)を再開。そこでは知人の協力でメリケン粉で「だんご汁」を作って売り出したところ、飛ぶように売れお金をバケツの中に押し込めても溢れるような状況だったようです。河村さんは当時学生ながら側で見て商売って面白いな、と自然と家業を手伝うようになったそうです。
 戦後は学生生活の傍ら洋裁店見習い、社交ダンス、映画鑑賞といろいろ楽しみながらも、陸上競技で国体に出場する事を目指して練習漬けの日々を送ったそうです。



そして本格的にホテル業を

 さて、河村さんの家業である飲食業のルーツは明治40年に徳山市公園区(現在の山口放送の横辺り)に毛利さんの計らいで土地を譲り受け、喜桜亭(きようてい)という料亭を開業した事がはじまりです。写真等は残っていませんが、大工の棟梁である河村さんの御父上が建てたこの料亭は、当時では高級料亭で有名だったそうです。
 その後徳山駅前に河村食堂を開業し昭和20年の空襲で全部焼失します。当時から飲食業の経営はお母様の河村カメコさんが代表して切り盛りされていたそうですが、河村ト
ミエさんが女手ひとつで経営者として手腕を発揮するところは、お母様の影響を多分に受け継いでいるのではないでしょうか。
 河村さんは女学校卒業後は家業に入り、昭和40年に株式会社有楽を設立と同時に代表取締役に就任、以降徳山の隆盛を宿泊施設や宴会施設として支え続け昭和46年には結婚式も出来る大宴会場を備えた有楽ホテルを竣工、またビジネス利用に特化した別館を昭和54年に竣工させます。
 河村さんは、戦後家業を建て直して軌道に乗せる事ができたのも、女学生時代に国体に出場できたのも、そして有楽ホテルが今あることも、当時お付き合いのあった様々な人に助けられ支えてもらったおかげだと言われます。『人脈は財産』という言葉は河村さんにとってまさに宝物なのです。



これからのこと

 そんな元気な河村さんも、昨年の8月に体調を崩され今後の有楽ホテルのことを考えるようになったそうです。結婚して東京で暮らしている長女の佳子さん(徳高25期)もお母様のことが心配で、度々徳山に帰って来るようになると、実家のホテルの経営の事や徳山の街の変わり様に何かしなければ!と真剣に考えるようになったそうです。
 佳子さんは東京で街づくりコンサルタントをしているご主人の会社で仕事をしているので、いわばその道の専門家です。ただ何しろ東京に居ては故郷周南の情報がタイムリーに入って来るわけでもなく、やはり地元の事は地元のネットワークを持たないとわからないので、今回筆者にも声をかけて頂き、これは岐山会報で是非記事にしたいと思いました。
 意外と徳山に住んでいる人間は宿泊用途として徳山のホテルを利用する機会が無いので、有楽ホテルを利用したことがある人は少ないのではないでしょうか。岐山会が開かれるお盆は同窓会が盛んに行われる時期で、特に徳山高校の同窓会(同期会)となれば人数も多いので会場の確保も大変です。ここ有楽ホテルには100名程度まで宴会の出来る会場もあるし、遠方から帰省された場合の宿泊(和室の広い客室も有り)も同時に出来るので、来年同期会を考えられている同窓生の方は是非候補のひとつとしてお考えください。
 施設の経年劣化は街のインフラの経過とともに過ぎてきたので最盛期のような設備ではありませんが、街興しの醍醐味は、ハードの古きを知恵と工夫で補う事だと思います。
 徳山駅から徒歩0分のところにある地元のコミュニティスペースを同窓生から少しずつでも活性化したいものです。
(取材・撮影) 三分一 幸治(高33期)


部活タイムカプセル 剣道部

立派な剣道場で世代を越えた気合いの稽古

「母校の部活を訪ねてみたい!」卒業したOB達が、後輩たちが練習しているところを訪ねて行って交流を深める…という主旨でスタートしたこのシリーズ、今年は体育系の剣道部と文科系の放送部の二本立てです!
 現在の剣道場は、平成九年に新しく建てられた体育館の地下に柔道場と並んで立派な道場が建設されています。取材当日、放課後に剣道場を訪ねてみると、すでに体育館の外にも気合いのあるかけ声と竹刀のぶつかる音が響き渡っています。筆者も剣道部のOBなので懐かしい思いでいっぱいでしたが、昔の剣道場の想い出しかないので、こんなに立派な道場で練習できる環境がうらやましく、時代を感じる瞬間でもありました。
 現在の剣道部の状況を、剣道部を率いて8年目の顧問の松本宣昭先生に聞きました。三年生4名が現役を引退し、二年生が9名、一年生が4名の計13名(男子10名、女子3名)。山口県内での成績は、県大会ベスト16というところのようです。
 取材日は、すでに5名のOBが胴衣を付けて現役の生徒を相手に乱取りの稽古の最中でした。OBが練習に参加するようになったのは、昨年にOBの方から生徒と一緒に練習をしてみたいという旨の打診があり、今は過2回程度来て頂いて一緒に練習するという事でした。まさに「部活タイムカプセル〜世代を越えた部活交流〜』の企画にぴったりの活動です。
 面を付けているのでOBといってもどんな方が稽古をしているのか最初はわかりませんでしたが、構えと動きからは皆さん相当な経験を積まれている事がわかります。武道に年齢は関係ないですね


OB会で自然発生的に…

 この目参加したOBは、23期から25期の方々が中心でした。年齢では実に63歳から65歳です!
 現役の徳高剣道部に練習に行こうという話がまとまったきっかけは、一昨年剣道部のOB会で有志が集まった時に話が盛り上がって、昨年から実現したそうです。23期から25期といえば徳高剣道部が非常に強かった時代です。インターハイにも出場していた黄金時代の皆さんは社会人になっても剣道を続けている方が多く、企業人として現役の頃は徳高の剣道部に練習を見に来る事は時間的に出来なかったけど、第一線をリタイヤして可能になったという事だと思います。
 練習に参加したOB最年長の23期田畑康則さんは、現在は下松市剣道連盟所属の教士七段で、中村少年少女剣友会のスポ少の指導もしておられます。まさに武道の世代を越えた活動をされていらっしゃるOBです。
 同じく23期の山本秀明さんは現在は剣道からは離れていますが、徳山高校の体育館が新しくなった平成9年当時のPTA会長で、体育館の椴帳を作る際に大変尽力されたと伺いました。
 現在周南市には新南陽地区と熊毛地区に武道館がありますが、昔の徳山市体育館の場所は今は県の総合庁舎となっており中心部に武道館がありません。徳山高校の剣道場も剣道部の練習場としてだけでなく、地域の武道の交流の場として様々な年代の方に開放し
てもいいのではないか、と山本さんはおっしゃっていました。



 24期の松本雅裕さんは転勤族の元銀行マンで定年退職後は山口労働局で働きながら剣道(居合いが中心)を続けていらっしゃるOBです。徳高の剣道場が新しくなった時は道場看板の文字を書いて後援会として寄贈されたそうです。現役の生徒と一緒に稽古をしたのはこの日で三回目ですが、徳高生の印象はインターハイを目指せるくらい絶対強くなる!と太鼓判を押されていました。
 道場にOBが集まると昔話にも花が咲きます。徳高を卒業して40年以上経っても剣道を続けられるって素晴らしいですね。

親子二代で徳高剣道部

 親子二代で徳高剣道部のOBという猛者もいらっしゃいました!25期の岩本太一さんと、同じく25期の茂木英三郎さんです。岩本さんの剣道着は大学三年生の息子さんのものを借用して来たそうですが、特注で「岐山会」というゼッケンを発注されて練習に参加されました。岐山会愛を感じます。
 茂木英三郎さんは現在NTT西日本の剣道部の監督で、今年のねんりんピックにも選手として出場されるそうです。先輩のご健闘をお祈りします。




 目標は中国大会出場

 剣道部の主将は二年の村木太朗君。普段の練習は、基本を中心に中国大会出場を目指して体力を付けることに取り組んでいるという。立派な剣道場があることも大変恵まれているとのこと。
 親子以上に歳の離れたOBとの稽古で感じた事は、先輩方がそれぞれ『自分の剣道』を持っていらっしゃるということで、常に一対一で心技体をぶつけ合うからこそ感じるものなのでしょう。
 礼に始まり礼に終わる稽古は、非常に清々しい世代を越えた部活交流でした。

 取材・撮影 三分一幸治(高33期)


平成26年度 第28号
写真で見る徳高の現在(いま)

@明治41年4月、大正天皇が皇太子殿下の頃、本校に行啓され、これを記念して明治42年に行啓記念碑「耿光」(こうこう)が建てられた。「耿光」の文字は山口県知事渡辺融の筆になるものである。この「耿光」という言葉は「明らかな光」を意味し、「徳の盛んなさま」をいう。碑の傍らにはオガタマノキが記念に植えられた

A平成9年に新築された体育館と連絡通路
B創立100周年記念庭園「いこい広場」

C図書館
D図書室の各大学の過去入試問題集、通称「赤本」

E4F渡り廊下からグランドを臨む
F昭和38年山口国体での男女ハンドボール優勝の記念碑
G昭和62年第69回全国高校野球選手権大会出場の記念碑
H昭和20年 徳山大空襲の記念碑「久遠」
I昭和45年 創立90周年校訓「真 健 和」制定記念碑

J徳山中学校時代の校舎の敷地と運動場を区切る赤れんがの塀は、徳中の伝統を象徴するものであったが、昭和38年に体育館建設によって取り壊された。
K今は南側、鉄棒のところに僅かにその一部が残り、当時の名残をとどめている。

L 新体育館地下の柔道場
M 新体育館地下の剣道場

N 化学実験教室
O 美術教室

P 普通科クラス
Q 新体育館地下の食堂

R 「徳高前」バス停
S 1,2年生の昇降口

21 徳山高校正面玄関上空。後方に見える黒土のグランドは野球部の練習場「徳高球場」
22 徳山高校運動場側から見た俯瞰写真

(2011年の運動会より)
23 運動会名物、3年生男子による「証城寺の狸囃子」
24 こちらも運動会名物。3年生女子による「市民ばやし」

(2011年の運動会より)
25 運動会のフィナーレは全生徒によるフォークダンス
26 戦前から歴史がある徳高運動会名物の「創作アーチ」
平成26年度 第28号
25期ホームページをよろしく   ■徳高25期 友弘充洋
25期の同窓会のクラス幹事の事務局を引き受けていることから、「徳山高校25期HP」というホームページを立ち上げて、もう何年になるだろう。「2000年同窓会報告」があるので、少なくとも16年は経過した。
 内容は、25期の「同窓会報告」や写真、東京での同窓会の 「七夕同窓会in Tokyo」、岐山会報での25期の記事の 「岐山会報から」 はか、写真関係として 「卒業アルバム」、各学年での「クラス写真」、数は少ないけど運動会の写真などの 「思い出の写真帳」、徳高関係では校歌などの紹介「校歌・応援歌憶えてますか」、徳高名物「證誠寺の狸ばやし」 の踊りの振り付け説明、平成11年の岐山会総会で作成した絵葉書「徳高ものがたり」、ちょっとした徳高知識の「徳高ミニ知識」、面白いのは2012年の同窓会で紹介した当時の「生徒手帳」 (この生徒心得は今見ると最高に面白いです)、その他同窓生の話題を載せた 「皆さんからのメッセージ」、そして早くも逝かれた恩師や同窓生の「訃報」などとなっている。
 そして、一番皆さんに読まれているのは「掲示板」だ。ホームページの管理人である私が無精に任せて、あまり内容を更新しないことから、以前は、皆さんからのアクセスも少ない状況であったが、見るに見かねて同窓生の「トイレ」さんが盛んに書き込みをしてくれた。それに呼応して 「オーイシ」さんが、高校時代の日記を連載してくれるなどにより、たくさんの皆さんが見てくれるようになっている。今では「teeboo」さん、「待つ純」さんなどの常連さんも加わり、大いに掲示板を盛り上げていただいている。
 同窓生の皆さんはホームページをあまり見てないのかなと思っていたが、結構皆さん見ているようで、少しでも同窓生の絆づくりに役立っているのかなと、わずかな努力をしてきたことが報われたような気がする。(私以外の人の努力がほとんどではあるが・・・)
 最近は、フェイスブックでの立ち上げの要望があるが、管理人の技量もあまりないので、この古臭い形のホームページを今しばらくは続けていこうと思っている。来年、定年退職して時間を持て余すようならまた少しはホームページの改良もしたいと思っている。
 皆さん、よければ一度ホームページをご覧ください。
http://25ki.starfree.jpjp/25kihp.htm
平成25年度 第27号
還暦を前に〜高校時代の日記を公開!   ■徳高25期 清沢啓子 (旧姓大石)
私たち二十五期生は、昭和二十九年〜三十年生れ。親は大正の終りから、昭和ヒトケタ生れだろうか。この親世代、学制改革以前に学齢期を終えた人と、途中で新制に移行した人とで落ち着かず、きちんとした教育を受けていない。が、儒教的な倫理観は叩き込まれているから、子供達には厳しかった。成長期を物のない時代に育ち、戦争で飢えや苦労を強いられた。でも働いて働いて、戦後の日本を立ち直らせた尊敬する世代でもある。
そんな親に育てられた私たちも、来年殆どの同窓生が還暦を迎える。徳山高校に入学したのは昭和四十五年、創立九十周年を迎え、新校舎の建築工事が始まっていた。世の中は「戦後転換期」とも言われ揺れ動いており、ドルショック、元日本兵横井庄一さん救出、あさま山荘事件、沖縄返還、田中内閣発足、日中国交正常化、ベトナム和平協定調印など大きな出来事が、沢山あった。
高校時代、私は日記をつけていた。その存在は覚えていたけれど、読み返す暇も気持ちもない位、忙しい年月を過ごしてきた。
三人の息子が巣立った五十代半ば、ふと手に取った古い日記。あの頃、何を考え、どんな生活を送っていたのか……興味がわくと共に、きちんと思い出してみたくなっていた。新聞部に所属していたので、校内新聞「鼓海」も数部残っており、のちに連れ合いとなる同学年の彼氏との交換日記もあった。
迷った末、二十五期のホームページの「掲示板」に「ときどき日記」として書き込んでみた。思いがけない反響だった。
忘れていた事や、あの頃の気持ちを思い出させてくれる。元気になれる。懐かしくて、ホッコりする。同窓生たちの沢山の励ましで修学旅行記や、卒業を前にした担任の先生たちのはなむけの言葉、クラス紹介も織り交ぜ今年三月、無事校了することができた。
定年を前に、少々息切れ気味?の同窓生たちを元気づけられたかな、と思っている。

平成25年度 SSH全校講演会
「皆さんへのメッセージ〜先輩として、医師として〜
東京女子医科大学教授 松田義雄氏(高25期
平成25年5月23日(木)

専門医になるまで

 徳山高校では、毎年SSH(スーパーサイエンスハイスクール)全校講演会として、さまざまな現場の第一線で活躍されている理系出身の同窓生をお招きしています。
 第一回目は飯田哲也氏(29期)に原子力の話を、第二回目は青木宏氏(23期)に宇宙開発技術の講演をしていただき、第三回目の今回は、東京女子医科大学教授の松田義雄氏(25期)に、医療を通じて人生を考える、そして先輩としてのメッセージを後輩たちに伝えて頂きました。
 松田さんは富田中出身で徳山高校卒業後鹿児島大学医学部に進学され、産婦人科専門医として国内や海外で研鑽を積まれました。現在は東京女子医科大学で教授として教育・診療・研究という多方面でご活躍されています。
 徳山高校は医学部進学を目指す生徒も多く、卒業生にも数多くの医師を排出しています。講演の冒頭に松田さんは、まず産婦人科の魅力とやりがいを話されました。現在産婦人科医はまだまだ不足している状況ですが、内科的な知識から外科的な技量まで必要とされ、胎児から老年までと極めて幅広い領域をカバーする魅力ある科であるということを強調されました。

生命誕生の素晴らしさ

 日本の産婦人科の第一人者の松田さんの生命誕生のお話は、かなり本格的でしたが、医学的にきちんとした知識を身につける事は、多感な年頃の高校生にとっては大事なことです。女性の身体は非常に複雑だということ、女性の資源は有限(一生の内に女性が排卵する数は、約400個しかない)ですが、男性の資源は無限(一回の射精で約1億の精子が作られる)だということ。だからひ
とつの生命が誕生するのは奇跡的な事で、人間が生きている意味は非常に貴重だということを改めて感じさせて頂きました。妊娠の成立するしくみや妊娠を維持する子宮のしくみなども3次元エコーの写真を交えながら詳しく説明して頂き、生徒たちも真剣に聞き入っている様子でした。
 松田さん日く、高校生への提言として、できるなら高校生のうちは性交渉はしないほうがいいということでした。その理由として『若いときは愛情と欲情を勘違いしゃすいし、妊娠や性感染症などの恐れがあるため精神的・経済的負担となる事が多いこと。性行為を早く経験しても得する事は何も無い』特に性感染症にならないように注意して欲しい、ということを強調されまし
た。性感染症の治療が不完全だと、がんや不妊症にもなることがあるし、性感染症は自然には治らないので、感染しない、感染させないためにも、しっかりとした妊娠や避妊のしくみ、性感染症を防ぐ知識を身につける事が大切です、と説明されました。

大学に行く目的

 最後に、医師に必要な要素(学力)のお話や、大学に行く目的を「自分を認めてもらい、他人を理解すること』『常識的な社会人になって社会に貢献すること』という言葉で締めくくられました。松田さんありがとうございました。

追記
松田義雄氏は平成25年6月より、国際医療福祉大学に移籍され、教授として周産期医療の第一線でご活躍されています。

取材・撮影三分一幸治(高33期)

平成24年度 第26号
高25期だより  ■徳高25期 通山恭一
(岐山会報では、坂本邦彦となっていますが、誤りです。)                                           

 25期の皆様、お元気ですか?早いものですね。高校卒業から40年が過ぎようとしています。
 2002年より「七夕同窓会」と称し、関東地区お住まいの方を中心に。25期の同窓会を開催しています。毎年7月第一土曜日に開催、北は仙台、南は下関からも参加戴いています。

【七夕同窓会の歩み】
始まりは合唱部の同窓会 言いだしっぺは 10組松田義雄さん
 不定期に集まっていた・・(らしい)  鹿児島より上京
 「年一回は集まろう!老後のためにも?」
  ・・・で、2002年より七夕に集まることに

 第10回目を迎えた昨年は、『修学旅行Again』-箱根と称し、一泊二日の旅行、周南や大阪からも参加、総勢24名で深夜までの宴を堪能しました。

【七夕同窓会ギャラリー】
第3回七夕同窓会
 小田急センチュリーハイアット
 まだ40代・・(若い?)
2010年忘年会
 一次会がボウリング大会に・・
若さの証明・・とはいかずヘトヘト
第10回七夕同窓会 『修学旅行Again』-箱根
鹿児島の夜をもう一度(!?)
2011冬はついにコスプレカラオケに挑戦
写真はマズイので、イラストでご容赦を
 天守閣に登る前です。まだまだ元気(!!)
これだけではありません。旅行積立「見守り預金」も始めました。参加資格は一つ、25期であること。
★2年に一回の旅行
毎月の積立でついでに安否も確認(!?)
  七夕同窓会メーリングリストも公開しています。  連絡先 k-tohry@nifty.com(通山)
 上京の際には是非声を掛けて下さい。絶好の肴、即皆が集います。
 ところで、来年の東京岐山会は25期が幹事を務めます。皆で盛り上げたく、周南からの参加も宜しくお願いします。
平成23年度 第25号
平成23年度夏:修学旅行アゲイン〜報告記 ■徳高25期 松田義雄                         
 

 同窓会誌の先輩方の欄で還暦前後に催される小旅行の記事を目にしても、 自分たちには遠い先のことだとタカをくくっていました。 それが、 数年後には還暦を迎える年になり、 東京周辺での同期同窓会も今年10年目を迎える〜このような経緯から、 今回「徳山高校25期七夕同窓会〜修学旅行アゲイン〜」と題した旅行を企画しました。
 大震災から数か月経ったとはいえ、 まだまだ不安定なこの時期に、 という意見もありましたが、 その一方で、 「予測できない時代からこそ、 今を楽しもう」との意見が多数を占め、 計画がまとまった次第です。
 二、 三日前まではぐずついていた天候も、 我々の熱い思いが通じたせいか、 当日はこの上ない観光日和に恵まれました。 そして、 「箱根」の観光スポットを巡っていくうちに、 40年前の修学旅行の記憶も少しずつよみがえっていきました。
 宴会の目玉として、 高校時代の懐かしいスライドショーを行いました。 セピア色に変色した写真や、 カラーとはいえないような(?)写真も提供されましたが、 昭和467年当時は白黒からカラー写真に移り変わる転換期でもあったことが改めて思い出されました。 高校入学から卒業にかけての「あの頃、君は若かった」映像に、 笑いが絶えない一次会となりました。
 すし詰めのカラオケルーム、 レアグッズ獲得を目指して繰り広げられた真夜中のビンゴゲーム(景品受け取りの代わりに募金して頂きました)、 そして深夜に及ぶ「友との語らい」は、 これからも長く話題となっていくことでしょう。
 「縁は奇なもの味なもの」といいますが、 高校時代のわずか3年間を共有しただけで、 40年繋がっています。 当初は年一回の再会を祈念して命名した「七夕同窓会」も、 何かにつけて四季折々に集まる会へと変わりつつあります。
 何はともあれ、 お互い体には十分気を付けて、 楽しく年を取っていきたいものですね。 

平成21年度 第23号
二五期「東京七夕同窓会」あれこれ ■徳高25期 戸倉三郎

 二五期の同窓生が東京で毎年開いている「七夕同窓会」の紹介をします。二〇〇二年七月に第一回が開かれて以来今年が第八回になります。毎年二〇人から三〇人が参加し、これまで一回でも参加したことのある人の数は五〇人余りになります。開催時期にちなんでいつしか「七夕同窓会」と呼ばれるようになりました。ロマンチックで少し気恥ずかしくもありますが、年に一度の再会を楽しみにしている同窓生の気持がよく表れたネーミングです。参加者は、東京近辺に限られる訳でもなく、西は徳山、東は宇都宮と、要するに来たい人が来ているのですね。このほか、年末にはだれかが誘って番外編の忘年会を開くこともあります。

 七月の土曜日のまだ日も暮れぬ午後四時半ころ、自称「彦星」「織姫」たちが会場に集まって一次会が始まります。一人ひとりが簡単な近況報告もしますが、最近は三時間コースでも時間が足りないほど話に花が咲きます。途中参加の人もいますので二次会では勢力はさほど衰えません。その後、さすがに勢力を弱めつつ三次会(だいたいカラオケです)、四次会と翌午前二時、三時まで粘る猛者も。この辺りになると、もう「天の川」ならぬ「酒の川」に流されている状態で、正確には何次会だったか分かりません。もちろん、翌日は一日中沈没して本当の年齢をしっかり思い出します。

 七夕同窓会では、高校時代にはほとんど話す機会のなかった人とも旧知のように語り合い、それぞれの高校生活を垣間見ることもあります。旧知の人でも、卒業後三六年間の年輪を重ねているので、高校時代と同じ人ではありません。毎年開かれる七夕同窓会は、遠く徳山に共通の根っ子を持った同窓生が新たな交友を積み重ねるという意味もありそうです。今後、年齢を重ね、自分の立ち位置が変わるほど、色あせても変わることのない若き高校時代への憧憬は強くなるのだろうか・・・などと小難しいことを考えていると、「本当は飲んで騒ぎたいだけじゃろ」というヤジが聞こえます。すみません、そのとおりです。

皆さんも、七夕同窓会に顔を出してみませんか。

平成20年度 第22号
「畏友 故中村朗君のこと」 ■徳高25期 坂本邦彦

徳高卒業後三十四年にわたり、私たち二十五期の同窓会長であった中村朗君が逝って一年と三ヶ月が経ちました。高校時代は生徒会長を一年間務め、卒業後に彼は高校三年次の各クラスから一〜二名の幹事を選んで幹事会を組織し、二十五期をまとめ上げてくれました。二十五期の同窓生は四百人ですが、彼はそのほぼ九割に当たる三百六十人の状況のほとんどを把握し、記憶しておりました。「進学した先はどこそこで、結婚して名前がこのように変わり、今どこに住んでいてこのような仕事をしている。」あるいは、同窓生の転居先不明となれば、「その人と仲が良かったこの人に聞けば分かる。」「その人の親戚は誰それなのでこのルートを辿ってゆけばわかる。」とアドバイスをし、実際にそのとおりになるのでした。まさに生きた同窓会名簿であり、それも半端ではありませんでした。彼の類稀な才能のおかげで、私たち二十五期の固い結束は、三十四年にわたって保たれたのです。

彼は九州大学法学部在学中には、高校時代と同様に剣道部に所属し、九州学生剣道連盟の幹事役も務めていました。彼はその連盟の仕事を、亡くなる前年まで続けており、この功績によりおよそ四年前に日本剣道連盟(当時橋本龍太郎会長・元総理大臣)から表彰されました。九大を卒業後、新南陽市役所におよそ十年間勤務しましたが、思うところあって退職し、学習塾(開道塾)を開きました。私たちは同級生ですから、自分たちの同級生としての、あるいは生徒会長や同窓会長としての彼の魅力や功績を語りますが、彼の真骨頂は開道塾での子供の教育において発揮されていたと思います。彼は小学校五年生から中学校三年までの子供たちを塾で指導していました。単に全教科の勉強を彼一人で教えるだけでなく、子供たち一人一人の特徴や性格を見極めて、勉強への取り組み方、進路の選択、高校合格のための戦略と戦術の立案をし、実行していました。その結果、彼の塾は高校入試においてたいへん高い第一志望校合格率を誇っていたのです。そして子供たちが高校に進学した後も、大学進学のアドバイスや受験勉強の支援・指導をし、さらに就職の世話、社会に出てからの心構えについての助言、そして果ては結婚の世話まで、実に子供たちの一生に関わるところまで、依頼されれば何でもやっていました。このようなことは、業種を超えた広範なネットワーク、それも信頼に裏打ちされたネットワークを持っていなければ、実行できることではありません。彼は子供たちの親ともよく話をし、その内容をうまく子供たちに伝えてくれました。つまり子供たちやその両親の双方から信頼されている大人がいて、その人が親の意見を代弁してくれるということであり、これは思春期・反抗期の子供を持つ親にとって、まことに貴重かつ有難いことでした。子供たちは彼が話すことをよく聞いていました。こうして彼が育てた塾生は四百人を超えています。

彼の葬儀の参列者総数はわかりませんが、葬儀会場であった「向西会館しんなんよう」に入りきらず、ずいぶん多くの参列者が外にあふれていました。同級生は言うに及ばず、小さな子供さんからご高齢の方々まで、これほど幅広い年齢層が満遍なく参列されている葬儀を見たのは初めてでした。彼の活躍の場が、信じがたいほど広い範囲に及んでいたことを示すものでした。

私たち二十五期の畏友中村朗君は、いつも飄々としていました。名実ともに「すばらしい自由人」でした。彼は私たちよりも先に旅立って、向こうで同窓会の準備を始めているのではないかと思います。いずれ私たちも向こうへ行くでしょう。精一杯生き抜いて、土産話をたくさん持って、向こうで彼と再会することが、彼への恩返しになるのではないかと思っています。                  (平成二十年六月十二日 記)

平成19年度 第21号
「永久の生徒会長へ」 ■徳高25期 松田義雄 
中村朗君

春一番が日本中を吹き荒れた翌日の、三月とはとても思えないほどの暖かい日に、君は旅立っていきました。
いくつもの病魔と闘いながら、むしろここ数年はうまく共存しながら暮らしてきましたね。その生き様には本当に頭が下がる思いです。

周りの人を精一杯気遣う君を慕って、われわれ25期は他の期に羨ましがられる仲の良さで、その団結力の強さは、当番幹事であった昨年夏の岐山会総会で見事に示されました。これからは今までよりも一層交流が深くなり人生をともに楽しんでいこうという矢先の、早すぎる死に無念の思いが消え去りません。

君との出会いは、中学三年の時の修学旅行の車内でした。三つの中学が一緒になって専用列車で京阪神に向かう旅行でしたが、われわれの中学が占めている車両にひょっこりやってきました。秀才の名を轟かせていた君でしたが、太い巨木というよりも、鞭のようにしなる柳の木というのが第一印象でした。この印象は以後40年も変わることなく、いつも飄々と、そう、飄々としていましたね。

4年前に腎臓がんが発見され、しかも骨転移という厳しい状況でも、むしろそれを隠そうともせず、公表しました。その強さはどこから来るのでしょう?われわれには到底できない真似でした。

今年の正月、坂本君と彼を自宅に尋ねました。年末に入院し一時帰宅が許された時のことでした。高校時代の思い出話から、最近の話までとりとめもない会話でしたが、終始穏やかな表情であったのが、印象的でした。

同い年はまだ少ないだろうけれど、多くの先輩方の間を、腰をかがめながら歩き回って、いつの間にか可愛がられている君の姿が容易に想像されます。今度は、他人にあまり気を使うことなく、好きな絵画でも鑑賞しながら、どうぞゆっくりして下さい。
そして、朝に、夕に、千の風になって、我々を見守っていて下さい。
さようなら。
岐山会報(平成19年度第21号)は
岐山会HP(http://www.kisankai.net/)から読めます
平成18年度 第20号
「カワウソの夜」 ■徳高25期 原田洋子  
 時間とは奇妙なもので、時々思いがけない悪戯をする。たとえば、見渡す限り灰色の建物の連続、山のすがたも遠く退いた都会に埋もれて、故郷に暮らした日々など前世の、そのまた前世のように思っていると、街角でいきなりかつての自分に出くわすことがあるのもそのひとつである。

 晩春の生暖かい夜、花のお江戸は湯島天神のお膝元のとある料理屋の二階に、かつて同時期に同じ高校の門をくぐった同級生たちがあいまみえた。長い歳月の隔たりがあるにもかかわらず、昨日試験のことを話したその続きを話すように話しているという不思議。あたかも時間のリボンの端がクルリと翻って反対の端につながったように。いったいこれはどうした魔法だろう。

 みんなに連絡を取ってお店も手配してくれたM氏持参の山口のお酒「獺祭」がビールの後回ってきた時、成る程この時間、空間の一種特別な感じは「祭り」だと思い当たった。日常からふと落ち込んだ異次元。仕事や家庭、健康、将来などの憂いからすっぱり切り離されたハレの世界。終ればまた連続する日常に何事も無かったように戻ることができる。

 「獺祭」とはカワウソが捕えた魚を食べる前にならべて置くことを祭りにたとえたものだが、広辞苑で見ると文を書いたりする時に何冊も本を散らかしていることも言うらしい。余談ながらこれは自分の仕事場にそのままあてはまる。毎日別の意味でお祭り騒ぎというわけだ。

 とまれ今宵の宴は夜が更けるに連れて山口弁の飛び交う騒ぎとなり、粋な板前さんたちもさぞあきれたことだろう。やがて宴も果てると、その座敷に青く光る魚を遺したまま、カワウソたちは三々五々地下鉄の入り口に吸い込まれていったのである。



岐山会報(平成18年度第20号)は
岐山会HP(http://www.kisankai.net/modules/sections/index.php?op=listarticles&secid=1/)から読めます
平成17年度 第19号
「アキラです。まだ生きているとです。」 ■徳高25期 中 村 朗
  皆さんをお騒がせして二年半が経ちました。ガンも自分の細胞変異ですから、私の性格を反映してサボっています。かわいい奴とは言いませんが、一蓮託生です。とは言え、以前に比べると物事を形而上学的に考えるようになりました。永平寺のお坊さんが「毎日を平気で生きることが悟りなのでは?」と言われてました。健康には気をつけなければなりませんが、健康の事で思い悩むのは逆効果ですし、子供の将来についても、心配ばかりするよりも、ある意味、平気で見ていくことも大切なような気がします。しかし、人間には「平気」はむずかしいようです。
  元旦に恒例の「アキラを励ます会」をしてもらいました。坂本、松田義、住浦、藤井和などの面々で楽しく過ごしました。鈴山君も前日に寄ってくれました。周南在住の友人は出会っても容体の事は聞かなくなりましたけど。
来年はいよいよ岐山会の当番です。前回は「無為自然」を主題としましたが、今回はアッと驚く企画ができたらと個人的には思っています。25期の皆さん、知恵を貸してください。そして、来年の出席よろしくお願いします。


もどる